最新ニュース
2013年03月04日
放射能=安心・安全キャンペーンに抗して、
福島の現実を訴える11人の声
3.3「福島原発災害に学ぶ─福島・首都圏の集い─」から
主催:
現代史研究会/経産省前テントひろば/たんぽぽ舎/反原発地方自治体議員・市民連盟/福島原発事故緊急会議
協賛:首都圏反原発連合/フォーラム平和・人権・環境
司会:郡司真弓(当NPO事務局長)
◎パネラーのプロフィール

◎パネラーの発言要旨(発言順)
●安斎 徹さん 飯舘村住人(伊達市に避難)、飯舘村新天地を求める会
3.11の原発事故で情報を伝えられず、飯舘村は故意に被曝させられた。いまだ放射線量が高く、少なくともあと30年は帰還などできないのに、県は今秋にも帰還政策を進めようとしている。国と原発ムラはあれだけの事故を起こしておいて、なんの責任も取ろうとしない。
以前、経産省の人に対して「飯舘の人は、(放射能の)研究材料にされた、売り飛ばされたんですよ」と言ったら、彼らは何も言えず下を向いたままだった。
●伊藤延由さん 飯舘村新天地を求める会(福島市に避難)
2010年に飯舘村に入植し、農業研修所の管理人をしながら楽しく農業をしていた。農場を6町歩に広げようとした矢先に「3.11」ですべてダメになった。今は福島市小宮に避難しながら飯舘村に通い続けている。
県内各地にモニタリングポストの数値が公式に発表されているが、手元の放射線測定器で測るとそれよりも高い数値が出ることが多い。
いま県と自治体は、いかに住民を騙して、帰還させるかに邁進している。(2011年3月22日の地方紙を示しながら)3月21日、飯舘村の簡易水道からヨウ素131が946ベクレル検出された日に、山下俊一氏は「健康上心配ない」と発言していた。しかし、最近の調査では甲状腺ガンの患者が3人、疑いも含めると10人出ている。
飯舘村は除染によって復興はしないと断言できる。今行われている除染は住民が戻るためのものではなく、除染業者のための除染だ。屋根の瓦を雑巾で一枚一枚拭いているが、これでは除染にはならない。除染すると放射線量が一時は劇的に下がるが、まもなく徐々に上がってくる。除染しても数ヶ月経つと、元に近い数値まで戻ってしまうのが現状だ。水田の除染も、田の土を剥ぐと飯舘村だけで230万トンもの土がでる。それをどこに置こうというのか。
帰村の条件に科学的な根拠は薄弱だ。「20μSv以下はタバコの害よりも安全、仮設住宅に住むストレスよりも安全だから」というものにすぎない。
原発は人間によっては制御不能のプラントであるというのが、現在の私の結論だ。
●木幡ますみさん 大熊町明日を考える女性の会(会津若松市に避難)
先日、大熊町に一時帰宅をしたら雨樋のところで、120μSV/hもあった。一時帰宅したときに聞いた話だが、大熊町の町長が除染作業を視察して弁当を食べたという。その食材は大熊町のものだったと聞いたとき、ぞっとした。
いま福島では毎日、放射能に怯えながら人が暮らしている。私の夫は腎臓が弱く、避難生活でそれが悪化したため、2011年6月に私から腎臓を移植する手術をした。その時点での検査では、がんの異状はなかった。しかし、2週間前に北海道がんセンターの西尾正道院長に診てもらったら夫は甲状腺に嚢胞や結節ができていた。私にも嚢胞があった。
西尾先生は、みんなかなり大変な体になっている。これは異常事態だ、とおっしゃっている。
大熊町の町長は帰れ帰れと言っているが、私は百年経っても帰れないと思っている。ほんとうは帰りたいが、子どものため将来のために帰れないというのが住民の本音だ。夫は透析を続けながら、2011年秋に「帰還なし」を前提に町長選に出馬したが、落選した。
原発はいま4号機も危ない状態。人間はこんな捨てるところもないものを作り出してしまった。一人一人が事故を反省し、二度と作ったり、再稼働してはいけない。
しかし、現実にはそんな福島に子どもたちが住んでいる。ロシアは国土が広いから逃げ出すことができたが、日本は狭いから出て行けない。そのことを考えてほしい。中間貯蔵施設を大熊町で引き取ってもよい、その替わり大熊町の住民が他の土地で生活する権利、家や土地をきちんと保障して欲しい。また、かつてヒロシマ、ナガサキで配ったような被曝者健康手帳、それを私たち住民と原発事故収束作業についている労働者全員に配布して欲しい。
●木田節子さん 富岡町からの避難者(水戸市に避難)
この集会に来るような方は、原発や放射能のこと、日本の歴史のことなどもよく勉強しているのであらためて言う必要もないかもしれない。私が訴えたいのはむしろふつうの人。例えば私の夫のようなサラリーマンだ。黙々と働き、税金を納めている人。しかしその税金によって、国の政策が支えられ、原発が推進されてきた。そのサラリーマンがいま何も言わない。サラリーマンが、国がちゃんとやらなかったら税金を払わないぞと声を挙げたら、国は変わる。
そう考えて、木幡さんと一緒に、二人だけで昨年、サラリーマンが多い新橋のSL広場でゲリラ街宣をして、福島の現状を訴えた。この3月にまたやりたいと思っている。
サラリーマンや若い人が変われば、国が変わる。今日も御茶ノ水の街には若い人が多く、このリバティータワーにも人が吸い込まれていって、ああこの集会を聞きに来てくれたのかと思ったが、別のイベントだった(笑)。
私も先日、フォト・ジャーナリストの山本宗輔氏と共に富岡町に一時帰宅をした。私の家は庭先で最高で10μSv/h。しかし3ヶ月前の一時帰宅のときは4μSv程度だった。雨が降り、落ち葉が溜まるとそこの線量が高くなる。
私たち福島の人間にはもう失うものはない。しかし、いま守るべきものがある人たちが、いま声を上げなければ、いつか私たちと同じような事故に遭い、「福島方式」で処理をされてしまうかもしれない。そのことにぜひ気づいていただきたい。
●井戸川克隆さん 前双葉町町長
町長就任以来、自治体の財政再建のために奮闘してきたが、辞任を余儀なくされた。町会議員8人からの辞職要求書の文面は、三下り半どころか二行半しかなかった。私を追求するなら証拠を出してくれと言ったが、証拠は出せないと言い返された。
「3.11」直後、県からの情報の遅れに戸惑いながら、自分で判断して町民を引っ張って、埼玉に避難した。しかし、いま町民に聞くと「私たちはふるさとを愛している。もう覚悟を決めた。だからここに住む」という言葉が返ってくる。これほどまでにわが町民を洗脳してしまったのは一体誰なのか。
放射能は目に見えないというが、人間の知恵を駆使すれば、見えるようになる。福島県の地図に(チェルノブイリの)放射線管理区域を重ね、さらに県内のモニタリングポストの数値をかぶせれば、どの地域がどの程度汚染されていて、人間がそこに住んでいいのかどうかは一目瞭然だ。規制値を超えた川や湖の水、自然から採取される食物マップを重ねれば、福島県全域で食べられるものはない。自然界がだめだといっているのに、それを人間の都合で食べているだけだ。線量が高いところは、子どもが住んではいけない、飲み食いしてはいけないところだ。会津若松市の一部にもそれはある。県北部にもそれは広がっている。宮城や茨城のデータは私の手元にはないが、放射線は県境を越えて広がったことは事実だ。
そういう環境の下で住民が暮らしている。それを強いている最高責任者は、福島県知事だ。我々が訴えなくてはいけないのは、県知事に補償を求めることだ。ところが、彼は県外に出た人を呼び戻そうとしている。私は2012年秋に県知事に質問書を出し、最近も重ねて質問をしたが、回答は曖昧なままだ。帰還の前提となる安全・安心の基準・数値が曖昧なまま、県は帰還政策を進めようとしている。
チェルノブイリではいまだに発症者が増えている。ウクライナの青年たちの多くが何らかの疾病を抱えている。それはフクシマの25年後を見る思いだ。
昨年訪れたジュネーブの市長さんからもお手紙をいただいた。(註:「政府に福島県民のみなさんがモルモットのように扱われている事態は許しがたい」という文面がある。井戸川氏のジュネーブ訪問の記録は、こちらのブログなどを参照)
日本では公衆被曝の限界はかつて1mSv/年だったのが、原発事故後に20mSvまで上げられた。ところがドイツでは0.3mSvが限度だ。食物は大人で8ベクレル、子どもは4ベクレルだ。ところがいま福島県は100ベクレルだ。過去の数値との比較、海外との比較をすれば、いかにこの数値が異常かということがわかるはずだ。何mSv以下なら戻せるという放射能許容値の問題については、厳密な科学の議論が必要だ。安易に行政が判断すべき問題ではない。
これほどまでに非人道的な扱いをなぜ主権者である国民に強いるのか。他力本願では何も変わらない。我々が、主権者としての国民が立ちあがるしかない。
福島県は住むところではないと発言する首長は私一人だった。排除されるのは当たり前かもしれない。しかしそれでもいいから、真実を言い続けようと思った。これからも私は真実を発言し続けていく。
●渡辺ミヨ子さん 借り上げ住宅居住(田村市)
田村市(旧田村郡都路村)に住んでいた。30キロ圏内だったので避難した。昨年の8月に賠償が打ち切りになり、帰っていいことになっている。除染という言葉を聞いたとき、最初に、それはまやかしではないかと思った。実際の除染作業を見てほんとうにまやかしだと思う。大手ゼネコンの金儲けの対象にされている。こういう事態になっても金儲けに奔走する国なんだなと思う。
ウソはついていけないと小さい頃から育てられた。日本の国の政治は原発にしても何にしてもすべてのことがウソで固められていることに、放射能以上の怖さを感じる。これは第二次世界大戦、いや徳川幕府のころから変わらない。このままの状態、国が国民を県民を騙そうということが続いていくなら、この国はおしまいだと思う。
スイスの原発では国民にウソはつかず、国民に全てを打ち明けて、(廃棄物)処理の方法を国民みんなで考えているということを、NHKのテレビ番組で知った。
日本は科学技術は世界一だと自慢するが、それがなによと私は思う。人命を大切にしない政策で国民を苦しめている国、ウソで固められた偽りの社会の中で人間が幸せに暮らせるはずはない。
地球を外から見た宇宙飛行士の言葉がある。「地球を守るのは、人類の知性と愛情と調和である」と語っている。
本当に国民を守るのであれば、すべてを明らかにするべきだ。それを進める政治家が立たない限り、日本に未来はない。ウソ偽りなく国民に明らかにして、国民を守るほかはない。そのことをみんなで訴えていきたい。

●佐久間久夫さん 二本松市専業農家
2011年の3月12日の夜頃には大型観光バスがすごかった。地震の後なのになぜ観光バスで旅行に行くのかと思った。それが浜通りからの避難のバスだった。運転手もどこへ行っていいからわからない、とにかく西に逃げろといわれたという。二本松市には、浪江町の人が避難してきた。そこまで来る途中は津島というところに逃げた。ところが、そこがホットスポットだった。
そもそも避難の仕方がおかしい。川俣町は避難しているのに、その(地形的に)下のほうの人は避難しないでよいという。下の町が使う(放射能に汚染された)水は上から流れてくるというのに。
田圃でもそう。3メートル上は作っていけない、その下は作っていい、などといい加減なものだ。
除染は最初は学校から行われたが、校庭に穴を空けて、そこにシートを張って、土をかけるだけ。あくまでも仮置き場。しかしそこから先に持っていくことはない。どこへも持っていく先がない。
家屋の除染事業も最初は高圧水洗浄だった。あまりに古い家は高圧で水をかけたせいで、トタン屋根に穴が開いて雨漏りした。むしろ線量は屋根よりも雨樋のほうが高い。新しい雨樋を買って付け替えたほうが速いと思うが、市のマニュアルにはただ高圧水洗浄とだけしかなかった。
山の除染なんて不可能だ。安達太良山から山形まで、あるいは黒磯のほうまで続くあの山々をどうやって除染するというのか。
民間の除染もどこへ土をもっていけばいいかわからないから、そのあたりに穴を掘って埋めているだけ。
ホットスポットはどこにあるかわからない。だから風評被害は確実にある。私のところでは作物はきちんと放射線を測って売っているが、一箱300円で売って、20円の儲けにもならない。
今年で百年になる小さな水力発電所が私の家の近くにあるが、修理しながら今でも動いている。水力発電が百年間持っているのに、原発は何年持ったというのか、あれだけの高い金をだして。これからのエネルギー政策では、自然の息吹を大切にしていったほうがいい。
●吉野裕之さん 子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク
私たちの活動は子どもたちの保護者が中心。自分たちでプランをつくり、率先して動く、それをみんなでサポートするというのが活動の趣旨だ。
最新型のGPS内蔵の可搬型測定器で、子どもたちの学校通学路などを一つひとつ測定している(同ネットワークのホームページにも紹介されている放射線測定結果【例】を示しながら)。学校の校庭は除染されているから、0.2μSv程度だが、子どもたちが通学している道路、部活で走らされているサイクリングロードなどは線量が高い。
文科省はヘリコプターや車から測定して放射能は低減しているなどと言っているが、私たちが歩きながらハンディ端末をもって測定すると、まだ高い。子どもの身長や道路の端を歩いて通学するという状況に沿って測定するとそうなる。
モニタリングポストの数値は点で測っている。その地点はたしかに他の測定器でもそう値は違わない。しかし、公園に設置されているポストから5〜10メートル離れると倍近くに上がる。子どもたちはそこで実際に遊んでいる。モニタリングポストそのものの数値がどうこうというよりも、それによって象徴される地域の放射能線量はあくまでも点での測定でしかないということだ。
ホットスポットを探して、高い地点を暴きだすというよりも、どこにクールエリアがあり、それがどのように広がっていくかという視点が大切。クールエリアを広げるという意味で、除染を促すことには意味がある。
この測定器はまだ2台しかないが、こうした活動の範囲をもっと広げていきたい。今後の原子力規制庁の防災指針にもこうしたデータを反映させるべきだ。
子どもたちは外で遊べていない。学校の体育の授業では外で遊べる時間の制限を設けている学校もある。震災以降2年近くなるが、一度も園児を散歩に連れ出していないという保育園もある。落ち葉などは他の県から送ってもらい、室内にそれを広げて遊んでいる。
子どもたちに少しでも外で遊ぶ時間をプレゼントしたいというのが私たちの思いだ。
保養プログラムには感謝している。お金と人員の手配など大変だと思う。保養プログラムに連れていくと「ここの土触っていいの?」と子どもたちは必ず聞く。子どもたちは道路の端の線量が高いことを知っているから、真ん中を歩く癖がついているが、保養地では堂々と道路の真ん中を歩ける。
最近、伊達市が移動教室を始めた。これは画期的なことだ。民間の保養プログラムと教育委員会の移動教室を組み合わせて、子どもたちの生物学的半減期の時間を稼ぎたい。
保養プログラムは、たんに子どもの身体のためだけでなく、子どもの心身の発達の権利を確保するという意義をもっている。子どもは私たちの未来というが、その子どもたちはみな現在を生きている。将来、自分たちの子ども時代を振り返ったとき、あのときの大人が何をしてくれ、何をしてくれなかったかということを思い出すだろう。子どもたちの将来の思い出をいかに豊かなものにするか、それは今私たち大人の行動にかかっている。
●井上利男さん ふくしま集団疎開裁判の会
(スライド写真を示しながら)
郡山市内の県営住宅の広場、0.86μSvのところで、子どもたちがマスクもせずに遊んでいる。郡山市街をチェルノブイリ法でいう強制避難地域のデータと組み合わせて示す。5mSv/年以上のところだが、これが郡山市街のほぼ全域を覆っていて、そこで子どもたちが遊んでいる。
こういう風景を作り出したのは、事故のあと1ヶ月経って学校を再開するために、2011年4月に文科省が出した通知だ。文科省は「国際的基準を考慮する」という。国際基準とはICRP(国際放射線防護委員会)のことだ。ICRPは原発事故の異常事態が収束したあとは、1〜20mSv/年の基準を考えるのが適当だという声明を発表した。そこから文科省が独自に計算して3.8μSv/時未満であれば校庭・園庭を使用してもよいとした。これがお墨付きになった。
3.8μSv/時という数値は放射線管理区域基準の6倍強に当たるもの。一般人の被曝線量限度の20倍に当たる途方もないものだ。
ICRPは、2011年3月21日の日本政府向け声明のなかで「放射線源が制御下にある場合、汚染地域が残っているかもしれない。当局は多くの場合、そうした地域を放棄するよりも、人びとが居住しつづけるのを許容するためにあらゆる必要な防護手段を提供するであろう」とも述べている。
ICRPのジャック・ロシャールら幹部は2011年11月に内閣官房のワーキンググループでプレゼンテーションを行った。ロシャールという人はベラルーシでエートスプロジェクトをやった人。「チェルノブイリ事故で被災した住民の大多数は被災地域にとどまる決心をした」として、日本政府にもそれを勧めた。その最終会議の翌日12月16日に野田首相による原発事故の収束宣言が行われ、同日に私たち集団疎開裁判の申し立てが棄却された。この判決は行政の決定をそのまま追認しただけのもので、裁判所は司法権を放棄しているといわざるをえない。
さらにIAEA(国際原子力機関)は昨年12月には原子力安全福島閣僚会議の開催という形で、福島に乗り込んできている。
「集団疎開の裁判にたとえ勝っても負けても、子どもたちを守るためには市民の力が必要だ」という弁護士の言葉を最後に紹介したい。
●人見やよいさん 原発いらない福島の女たち
原発事故で生活ががらっと変わった。東京にこれほど通うことになろうとは思わなかった。福島で穏やかに平和に暮らしていたかった。それが悔しい。女たちが力を合わせて何かをしなくちゃということで、東京で座り込みをしたり、院内集会を開いたりとか、東電や各省庁交渉をしてきた。
省庁交渉では、愕然とすることが多々あった。例えば厚労省交渉では、子どもに甲状腺の膿疱が見つかって不安になっているお母さんたちの前で、役人が「科学的知見によれば安全なんですよ。2年間は様子を見ていて大丈夫ですよ」とぬけぬけと言う。“厚生省”はその名の通り、「厚かましく生きている」のだとそのとき思った。
文科省でも「子どもたちにはガラスバッチでなくて、線量計をぜひ支給してほしい」と要求しても、「学校には1台ずつ線量計を支給しているから大丈夫」という。しかし学校の線量計は車で通勤している学校の先生が管理している。道路の端を徒歩で通学する子どもたちの実態に即していない。
省庁交渉では末端の官僚の人はよくしてくれる。しかし、原発を止めることができる権限を持っている人に私たちの思いを直接伝えたいのに、それが叶わない。
IAEAが原発や放射能の安全を広めるために福島に入り込んでいる。12月の福島閣僚会議は私も3日間にわたって傍聴してきたが、一般市民の傍聴は少なかった。市民の傍聴が可能であるという告知がほとんどされていなかったからだ。会議の傍聴にあたっては厳しく所持品検査がされた。カメラの中に武器が仕込まれていないかというところまでチェックされた。
福島県は原発廃炉を宣言したにもかかわらず、会場にはその展示はほとんどなく、福島では除染や測定、健康調査を頑張っている、福島県は安全だというアピールばかりが溢れていた。世界に向けて、福島の安全をアピールする場だった。しかし実際はそうではない。これからでも遅くはない。原発問題はその安全性を考えるのではなく、危険を考えることが大切なのだということを、これからもアピールしていきたい。
●吉沢正巳さん 浪江・希望の牧場場長
画像のダブルクリックで動画を再生します。
浪江で和牛の繁殖と肥育を今も続けている。3月17日原発の排気筒から立ち上る噴煙をこの目で見てしまった。あれから2年。浪江町は2万1千人の町民が町に帰れない。僕たちが抱える無念、絶望感がなかなかみなさんに伝わっていない。4月には警戒線の解除が行われるが、しかし我が町、浪江町は今も死の町、絶望の町だ。70軒の酪農家、400軒近い肥育農家のほとんどが潰されてしまった。3500頭の牛たちのうち、1500頭は餓死してミイラになった。殺処分という半強制的な圧力に抗して、私たちはそれでも牛を生かしてきた。警察の検問をかいくぐりながら、放射能が漂うなか地区に入って牛の世話をしてきたのは、牛飼いとして絶対に牛を見捨てないという思いからだ。
事故のあと双葉郡の住民に対して「原発立地で潤ったのだから自業自得だ」という発言があった。怒りを覚える。私たちには、東北電力が計画していた小高・浪江原発を30年以上の反対運動によって作らせなかった、という歴史がある。それがなかったら、小高・浪江に最初に原発ができていた。
それでも福島原発の事故。放射能の汚染地図でこの地は真っ赤に塗られている。福島県議会は10基の廃炉を宣言したが、なんだよ、今頃になってという思いだ。水源のダムがあるところも真っ赤だ。そんな水を使って、米作りなど二度とありえないだろう。米作りができないところに、農家が戻れるわけないじゃないか。山の汚染、ダムの除染なんてできるわけないだろう。
二本松に疎開している小学校にはついに今年の4月には新入児童が一人もいなくなった。学校、スーパー、病院、なんの意味もない。再開なんてできない。請戸漁協の漁師さんたちはこっぱみじんに津波で粉砕され、墓さえも残っていない。
その現場に立てばこの世の終わり、心が折れる。浪江町の絶望はそちらこちらに転がっている。
僕たちはそういうなかであえて「希望」という名前をつけて牧場を存続させている。僕の牧場は空間線量で3μSv/hある。しかし浪江町では30μSvのところにまだ和牛が100頭近く生きている。そこに農家さんが通って世話をしている。そこに行けば被曝することがわかっているにもかかわらずだ。
もちろん東電の賠償は勝ち獲る。しかし牛は売れない。それでも牛の世話を続ける。栄養失調で痩せ細った牛たち、意味のなくなった牛たちに餌を与えながら、自分たちが行っていることはなんだろう、なぜだろうと思う。
私たちが牛たちを生かす意味をみんなに問いたい。牛の殺処分=“棄畜政策”、これはかならず“棄民政策”につながるだろう。双葉郡の避難民はまともな補償も受けずに、避難所で年寄りからだんだん倒れてしまう。我々のせいで起きた事故でもないのに、そのためにこのまま自滅していっていいのか。
違う。そうじゃない。原発再稼働がこの夏・秋にも始まろうとしている。反原発の拠点となった経産省前テントひろばも、撤去させられるかもしれない。今こそ私たちの原発を乗り越える実力が問われる。この原発を乗り越えるために、闘い続けるしかない。牛飼いとしての残りの人生を、その闘いの先頭に立って頑張っていく。
最新ニュース
2013年02月25日
「天草保養キャンプ」プロジェクトいよいよ始動
いわき育英舎と本宮市被災者激励講談会の報告
理事長 神田香織
■今年7月に小学生9名が天草で保養キャンプ
2月17日午前中にいわき育英舎に行き、施設長の市川さんと夏の保養キャンプについて打ち合わせ。自然豊かないわき市小川町にある養護施設「いわき育英舎」は、親のない、あるいは親から虐待を受けた子どもたちが30人ほど暮らしている。このあたりの線量は0.14マイクロシーベルト/時ぐらいで、そう高くはない。ここは原発から34kmの距離にあり、30km圏内避難となった事故当時は相当混乱したとのこと。食料がとどかず、仕方なく須賀川市へ移動し3月18日から31日までの2週間ほど過ごしたそうだ。須賀川の放射線量は当時20マイクロシーベルトあり、低いところから高いところへの避難だったのだが、食料がなくてはどうにもならないので、やむをえずの避難だったということ。
保養キャンプ参加者は1年から6年までの小学生全員の9名と職員2人で期間は7月中の夏休み。天草往復は航空機を使う予定だが、8月になるとぐっと航空運賃が高くなるため、7月に実施することにした。福島県はいま、県外へ保養に出る分には助成金を出さず、逆に県外から福島県にくる企画には助成金を出すという政策を採っている。これもおかしな話ではある。
市川誠子・施設長(右)とがっちり握手 市川誠子・施設長からは「家庭がない子たちなので社会性が育っていない。ぜひ普通の家庭の雰囲気を体験させたい」という要望が寄せられた。食事も提供されたのを食べるだけで、食器洗いや料理の手伝いなどしたこともない。魚も切り身しか知らない子どもたちなのだ。
だからこそ、今回の保養キャンプを機会に、子供たちに料理や掃除のお手伝いをさせたり、魚に触れたり、ペットとのふれあい(寮はペット禁止)、また、お年寄りと一緒に過ごさせてほしいという要望があった。
夏休み保養キャンプは受け入れ先の熱意もあり、スケジュールが過密となり、子どもたちが疲れてしまうケースが多い。天草保養ではむしろ家庭の雰囲気を味わってもらいたい。親の故郷、自分の故郷というものを知らない子たちにとって、天草が第2の故郷となることを願う。
施設長さんと握手を交わし、子どもたちの喜ぶ顔を想像しながら、きょうのもう一つの課題である、浪江町の仮設住宅に暮らす皆さんを激励するため、本宮市の白沢公民館へ向かった。移動の車の中で案内人の佐藤さんいわく「家の除染をしたら、持って来た砂利が悪いのか、前より高くなってしまった」。0.3マイクロシーベルトぐらいだったのが0.6になってしまったそうだ。除染はまったく無意味だとチェルノブイリが教えてくれているのだが、どうして学ぼうとしないのでか…。
■本宮市の浪江町仮設住宅で激励講談
浪江町仮設住宅の実行委員の皆さんと 1時間半で本宮市白沢公民館到着。風が強いせいもあってか、線量は0.5ぐらいあり、ため息が出てしまった。この懇談会は、当初はいわき市へ行くついでに、以前に取材させてもらった中央台の楢葉町仮設住宅の小さな集会場で激励の一席、と思っていたのだが、まとめ役の方が「福島の語り部」として九州へ出張中ということで、代わりに本宮町の浪江町仮設住宅での講談会となった次第。
本宮市の仮設施設には約2000人の方が暮らしている。「日曜日で行事が重なり、何人来てくれるか」という主催者の心配をよそに開演前からぞくぞくと集まってくれ、その数およそ200人。
仮設自治会の会長さんが挨拶で「あと5年、仮設で辛抱することになってしまい…」と落涙。会長さん初め、仮設の皆さんの先が見えない辛抱の毎日に、私も胸が痛んだ。
いよいよ講談会の開始、この日同行の弟子は那須烏山出身で3月から講談協会に前座見習いとして所属することになった神田織乃だ。きょうがプロを目指してからの初高座だった。司会の大倉さんが湿っぽくなってはいけないと思ったのだろう。声をはりあげ「さあ、お待ちかね、20歳になったばかり、神田香織の一番弟子、本日初デビューを飾る講談会期待の新星、神田織乃さんで~~す」と紹介しれくれた。
これには袖で出番をまっていた私と織乃、顔を見合わせ笑ってしまった。たしかに20代とは伝えたが20歳とはいってないし、一番弟子は他にいるし…。サービス精神に満ちあふれたオーバーな表現はさすが明るい浜通り気質!その浜通りの皆さんが事故から2年間、先も見えない中、耐えに耐えて励まし合って仮設住宅で暮らしている…。
私の演目は福島由来の講談「井戸掘り五平ー浅間山大噴火余聞」。浅間の噴火で水が出なくなった奥州白河在の村、人が去ってしまったなかで「井戸を堀りつづけろ」という父の遺言に従って、村人に変人扱いされながら8年間井戸を掘り続け、ついに掘り当て、人々が喜び戻ってくるという井戸掘り五平。そして五平の父親の水を盗み飲みした自分を恥じ、反省して五平の後ろ盾となった和尚さんの物語だ。愚直なまでに誠実な青年と心から詫びて五平に力を添えた和尚、二人の爪の垢を煎じて電力会社、政府、官僚たちに飲ませたいと会場の誰もが思ったことだろう。責任はきちんととってもらいましょう!
久しぶりに大笑いしたと会場の皆さん。織乃にとってもいつまでも心に残るデビューとなったはずだ。おりあるごとに仮設住宅にでかけ、講談で激励しながら被災者の話を聞き、それを全世界に伝え続けたいと、あらためて思った一日だった。
最新ニュース
2012年12月30日
天草の無農薬米を福島の子どもたちに
児童養護施設「いわき育英舎」に180キロを寄付
理事 郡司真弓
12月上旬に、当NPO理事長の神田香織が天草を訪問した際、無農薬農家の川﨑眞志男さんから、「福島の子どもたちに無農薬のお米を食べてほしい」と180kgのお米の寄付の話が寄せられました。川﨑さんは、科学肥料や科学農薬を使わず、土本来の力を引き出す自然農法にこだわってお米を作っています。
(詳細はhttp://www.rakuraku-nouen.com/company/)
川﨑さんの自然農法米
福島県に暮らす子どもたちは、放射能の影響を心配しながら毎日生活しています。せめて、食べるものは安全な食材を使って口にしてほしいとは誰もが思うところです。
私たちは、川﨑さんの温かな思いをいわき市の児童養護施設「いわき育英舎」につなげ、25日にはクリスマスプレゼントとして自然のエネルギーのあるお米を届けてきました。
鈴木久理事長と、市川誠子施設長が出迎えてくれました。また、このお米は育英舎の他に福島県内5施設にも配られました。
石川施設長(左)、鈴木理事長(中央)、郡司(右)
広いいわき市ですが、児童養護施設は「いわき育英舎」一か所だけです(福島県でも8か所)。ここに3歳~高校生まで30人が生活しています。男女比率では、男子が圧倒的に多く21人、女子は9人で、1階が男子部屋、2階が女子部屋です。男子の入所要望があっても、男子部屋は満室のため断っているとのこと。断られた男子は、会津や福島市などに転居しなければなりません。
福島は浜通り、中通り、会津地方の3地域に区分されています。それぞれの地域の気候も全く違い(浜通りは雪が降らない)、住む人の気質も違うところで、幼い子どのたちが一人離れて暮らすかと思うと胸が痛くなりました。遠方になれば、親の面会の機会も制限されます。
「いわき育英舎」1階は男子部屋 2階は女子部屋
子どもたちの6~7割は親からの虐待です。そのほかは、離婚によって育児が不可能になったなど、一人ひとりの背景も複雑になってきました。この時期は、年末年始に親元に帰る子どもと行く先のない子どもの顔の表情に差が表れ、市川施設長は「一番嫌な季節です」と話されました。
しかし、地元の小学校に通う児童たちが今年の全国陸上大会で福島県の代表に選ばれて、横浜の日産スタジアムで走ったとのこと。これは、施設で暮らす子どもたちにとっても大きな希望になりました。また、中学から高校へは全員進学するとの話も聞き、鈴木理事長は「施設で育つ子どもたちが高校生の先輩を見習い、成人した先輩を高校生が見習うことが、一番の教育です」と話されていたことが、印象的でした。
子どもたちを取り巻く環境は、年々厳しくなっていますが、この施設で暮らす子どもたちが、川﨑さんのお米を食べて力をつけてたくましく生きてくれることを願って、育英舎を後にしました。今後も、育英舎とネットワークを築きながら、近い将来、子どもたちを天草に連れて行き、保養プログラムが実現できれば・・・と思っています。
2012年12月24日
学生たちの関心は?
明治学院大でチェルノブイリ視察と福島の現状を報告
12月17日、明治学院大学国際学部(横浜市戸塚)の齋藤百合子教授の授業で、当NPOの郡司事務局長がチェルノブイリ視察と福島の現実、そしてこれからのことについて話をしました。1~2年生25人が真剣に話を聞いてくれました。今、福島の情報も少なくなり、関心も薄れてきましたので、福島や原発被害を理解する良い機会になりました。
以下は、授業の後、学生たちから寄せられた感想の一部です。
1.今日の講義の感想
●岩手のことは知っていたけど、福島の現状については知らなかった。この講義で知ることができてよかった。親が子どものときに被爆していた影響が子どもに出ることに驚いた。もっとこれからも福島のことを知るべきだと思った。
●講義の前は原発のことは私にとって関係ないと思っていた。でも今日の講義で考えを変えた。チェルノブイリは26年前に起きたことなのにまだその影響がある。とくに子どもたちが放射能の影響を強く受けていることを知って驚いた。この問題は人ごとではなく、自分が気を付けないと次世代の子どもに影響するかもしれないと心配になった。また今日まで福島の人々が置かれた状況を知らなかったし、関係ないと思って知ろうとしなかった。でもこの問題は人ごとではないことがわかった。
●「除染は無意味。放射能は放射され続けているのだから」という言葉が印象的。福島の人々の現状を知らなかった。
●時が経つにつれて、かつて起きたことを忘れてしまう。3.11のことも忘れかけていた。そのことを恥じる。今日の講義はそのことを思い起こさせてくれた。
●福島で起きていることを本当に知らなかった。障害を持つ人、ようやく移住地を見つけてこれから移住しようとする人に対する支援が打ち切られることはひどいと思った。また放射能の影響は長く続くのだと学んだ。私たちは情報をきちんと得る必要がある。政府はこの問題は福島だけのことにしようとしているけど、これは自分たち、日本人全体の問題である。
●今日の講義ありがとうございました。郡司さんたちの福島支援NGOが放射能の影響があるにもかかわらず再生、再構築を願って設立されたことに驚きました。困難なこともたくさんありながら、それに対して立ち上がり、グループとして活動されていることに敬意を表します。
●福島で起きていることを聞いて驚いた。想像していたよりもひどい状況だった。郡司さんの姪さんとその子供さんのメッセージは具体的だった。多くの地図や写真などのプレゼンは大変印象的でわかりやすかった。でも3.11で発生したことに関して私は何もできない。
●チェルノブイリのことは少し知っていた。今日の講義で福島のことを知った。1年半が過ぎてマスコミも被災地や3.11を取り上げなくなり、忘れかけている。しかし福島では支援が必要とされている。もっと関心を払うべきだ。
●チェルノブイリの話は興味深かった。とくに子供のことは悲しい出来事だった。もっと世界は原発よりも幸福を追求するべきだ。
●目が開かされる思いだった。今日の講義は聞けてよかった。政府広報の放射能の情報に関しては注意すべきと思った。
●放射能の健康被害は次世代にも続くことを認識した。放射能問題がこれほど深刻であることを初めて認識した。私たちが幸せに生きていることに感謝する。その一方で被災した人に関心を払うことが必要だとおもった。
●神奈川県には米軍基地があり、楽観できないことをしった。
2. どんな行動が必要だと思うか
●もっと問題を知るべき。また政府は危険情報も公開すべき。政府にしかできないこともたくさんある。
●ボランティアに行く時間はないけど、インターネットなどで得た情報を広めて行くことはできると思う。
●福島のことを知ること。福島のためにボランティアをすること。
●これまで何の行動も起こしてこなかった。でも福島のことを知った以上、学生は福島にいって休み中にボランティアをすることが必要だと思う。
●募金。原発稼働反対。
●正しい情報を得ること。情報操作されたメディアが飛び交っているが、福島の人々から状況を知ることが必要。
●放射能の情報に注意するべき。もし自分の子どもが生まれたら健康チェックはする。
●被災地に注意を払わなければならない。情報を得る必要がある。
●福島の人たちとつながること。私の親族も友人も福島出身者はいないけど、でも福島の人を支援したい。そして福島の人が横浜に来たときには快適な空間を提供したい。
●福島で起きている放射能のことを周りの人に伝えること。募金など福島の人のために何か支援をすること。
●ホットスポットを特定することそして対処すること。
●3.11とチェルノブイリを忘れないこと。子供の健康診断を受けさせること。
3. 考えや生活が3.11以降変化したか
●生活は変化していない。でも原発に関する認識は変わった。
●生活は変わっていない。でも地震や津波、原発事故についての考えは変わった。日本は地震国なのだから、地震に慣れてしまっているけれど、もっとその危険性を認識するべき。そして原発事故の危険をもっと知り、それを避ける努力をすべき。
●3.11前は原発事故を想像していなかった。しかし政府もマスコミも団体もその影響を把握していない。もっときちんと情報を把握すべきだと思った。
●横浜は被災しなかった。しかし、いつ関東で大きな地震があって原発事故が発生するかもしれない。そのことに備えるべきだと思う。
●節電するようになった。赤十字で募金活動をした。横須賀に原子力の危険性が潜んでいることを知らなかった。
●変わった。復興支援金の使い途について政府の方針に疑問をもっている。
●地球の威力は巨大であること。被災地支援に参加した経験があり、現地入りすることも容易でないことを知っている。しかし福島の人のためにリサイクルや募金など、小さなできることから行動をしたい。
●ニュージーランドの友人から日本は大丈夫かとよく聞かれる。世界の人が注視している。だから原発を廃炉にすべき。
●生活は変化していないが、考えは変わった。いつ何時この平和な時が終わるかわからない。家族や友人と過ごす幸せなことは当たり前ではなく特別なことだと思うようになった。
●岩手(吉里吉里)でボランティアをしていると子どもも大人も心理的な影響を受けていることを感じる。日本人として何が起きているのかきちんと知ることが大事だと思う。
●地震発生から3ヶ月は地震の影響があったが、その後は福島にも関連がないので3.11のことをだんだん忘れていた。
●原子力は環境にやさしいと思っていた。二酸化炭素を排出しないから。でも原発は一度事故を起こせば大惨事になる。結局、原発は他の発電方法よりも危険な方法だった。原発による電力はいらない。
2012年11月15日
福島人権宣言シンポジウムに参加して
理事 郡司真弓
11月11日、福島市の福島テルサで「福島人権宣言シンポジウム」が開催されました。私はパネルディスカッションのパネラーとして参加してきました。
福島駅に降り立ち、放射能の空間線量が高い福島市街を歩いてみると、誰もが何事も無かったいような平和な生活が送られているようでした。
しかし実際は違います。駅前に一人の女性が放射能汚染のパネルを持って立っていました。話をきいてみると、「福島の人たちの意識は変わってきました。3・11以降、静かだった人たちも、昨年末から声を出しはじめ、この夏には怒りが出てきました」とのこと。

会場は、開始前から多くの人の熱気に包まれていました。それは、福島の人たちの怒りの表れでした。
■福島人権宣言とは
まず、この間、福島の人たちに寄り添い、支援をし続けてきた野村吉太郎弁護士から、「福島人権宣言」についての説明がありました。
この宣言は、日本国憲法に明記されている個人の尊厳のもとの幸福追求権(第一三条)、平等(第一四条)、言論と表現の自由(第二十二条)、個人選択権(第二十二条)、財産権の保障(第二十九条)、そして第九十九条の「公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」を基本に、福島の人たちの人権を高らかに謳ったものです。それは、国策として原発を推進してきた国の責任を明確にさせるものでした。
*福島人権宣言の全文
そして、この人権宣言は、憲法を使って福島の人たち、一人ひとりが本来あるべき笑顔と人権を取り戻すことをめざすものです。憲法は、国家権力が暴走・肥大しないために、一人ひとりが国をけん制する「道具」でした。今回の「福島人権宣言」は、憲法を使ってあるべき人権を求める画期的な市民による動きです。
パネルディスカッションでは、それぞれ立場の違う3人がパネラーとして意見や問題提起をしました。
福島大学准教授の石田葉月さんは、大学の中で徐々に脱原発の動きができにくくなり、まるで戦時中のような空気があることに触れ、それでも国や県ぐるみの安全キャンペーンに対する異議申し立てや、文科省作成の安全な放射能の副読本でなく、バランスの良い副読本を作成してきたことなどを報告しました。
また、福島市から関西に避難した近藤香苗さんからは、避難に至るまでの心の葛藤や、関西で感じる福島との温度差など、実体験を踏まえた話がありました。さらに会場からはいろいろな声が聞かれました。それは、国から見放された怒りでした。

■会場にあふれる怒りの声
●女性(伊達郡)
事故後、身体の体調が悪く変調が見られているが病院では関係ない、と断言されている。
今の福島には、生存権が認められていない。
●女性(福島市)
今、行政は不安を解消するのが目的となっているがおかしい。私たちにあるのは不安ではなく危機意識であり、行政の仕事は生活再建を図るのが目的であるはず。「頑張ろう!福島」と言われても、頑張る根拠が全くない。頑張れば放射能もなくなり、再建ができるのか。
●男性(川俣町山木屋地区)
放射能被害で避難し、今、4畳半の仮設住宅で生活している。約20年間、農業の組合長をやってきたが、エネルギー政策に何の不安もなく過ごしてきたことを反省している。農協の共済には原発被害は除外されているので、全く保障金は出ない。今、電力関係企業100社の内部留保が80兆円と聞いている。安全神話の中で儲けてきた企業があるが、何の責任も持たない。これから裁判を起こしていきたい。
●男性(福島市)
昨年の3月15日、ラジオから23.9マイクロシーベルトの情報があった。2日間で1年間の1ミリシーベルトを超えた。除染をしたが、自宅周りは18万5000ベクレルという数値でチェルノブイリの避難地域と同じ汚染だと知った。家の中は0.8~1.4マイクロ。庭は5マイクロだった。除染後は家の中は0.3~0.11マイクロ、庭も2.8~0.24マイクロに下がったが、庭や畑は5~20センチの土をはぎ取った。庭や畑がなくなり、喪失感と虚脱感に覆われている。畑の野菜を測ったら47ベクレルが検出され、もう家庭菜園はあきらめ、野菜は県外から買っている。内部被ばくも心配である。
●女性(二本松市)
昨年7月11日、政府交渉の時、福島に常駐している国の官僚に、「私たちは他の県の人たちと同じく生きる権利がありますよね」と聞いたら、官僚は「あるかどうか分かりません」と答え、びっくりした。その時から「人権」について考えてきた。
二本松で3月15日午後2時22分、100マイクロ、部屋の中が20マイクロであった。3月16日午後1時8分は、80マイクロ、19日は部屋の中で20マイクロだった。汚染されていない土地、食べ物、住居を賠償してほしい。庭のタンポポが1.8メートルにもなり、頭の上で花が咲いていた。土壌汚染は51万3000ベクレルあった。避難は個人でやるのではなく、国がやるものであり、怒りが収まらない。
●女性(福島市)
娘が3人いる。長女は結婚して南福島から子どもを連れて新潟に避難。行政は子どものために対策をとってくれているのか疑問。学校帰りの子どもたちはマスクをしていない。野外活動や運動会、プールも普通に行われている。高校では除染がすんでいない阿武隈川の河原でマラソン大会もやっている。給食は福島の子は20ベクレル以下なら大丈夫というが、子どもたちには全く放射能が入っていない食材を提供してほしい。
●女性(福島市)
毎日不安と絶望の日々だ。今、やけどのような症状が出てきている。ひりひりぴりぴりという感と、目やほほが真っ赤になりノイローゼ気味だ。お医者さんは「因果関係を認められない。人によって個人差があるから」と言って取り扱ってくれない。庭は5マイクロあるところもある。夜もゆっくり眠れない。放って置かれているような感じがしている。もう精神的にきつくなってきた。黙っていたのでは一歩も前に進まない。みなさんとがんばっていきたい。人権宣言に救われる思いで参加した。
●男性(川俣町の町議)
法律で決めた制度や仕組みを行政が守っていないのが一番の問題だ。汚染も5000ベクレル超えれば耕作不能となるが、川俣町山木屋地域は基準の6倍超え、チェルノブイリの27倍になっている。東電関連社員に無脳児が生まれたが、因果関係が証明できないので黙っている。作業員に白血病も2人出た。除染して帰還できるのは夢のまた夢である。1ミリシーベルト以上のところは全部賠償しなければならないから、安全と言って帰還させている。国は、企業には100%賠償するけど、個人賠償はかかった費用の20分の1である。こんな非人間的な話がまかり通っている。
伊達市だって南相馬市だって、避難すべきだ。賠償金も仮払いすら2割しか受けられていない。本払いは2年後に支払われる。「2年後に帰ります」という宣言をして、東電に「これ以上賠償は要求しません」という念書を出さないと本払い金が出ない。まだまだ住民が救われる法体系ではない。民放709条の損害賠償、710条の精神的賠償のいずれも法律の専門家にすがらざるを得ない。
●男性(川俣町山木屋地区)
昨日環境大臣が仮設住宅に来たが、つくづく、「福島県人はお人好しだなあ」と思った。誰も大臣に文句言わない。かえって握手をしている。「大臣、仮設住宅さ二晩三晩泊まってみろ」といった。政治家はまったく現実が見えていない。我々は帰還後の生活が一番気になる。春は山菜、秋にはキノコ狩りが楽しみだった。春にはうぐいすの音を聞いて、生活してきた。その生活が全部奪われた。この先が見えない。この10日間で同じ部落の人5人も亡くなった。自分も仮設住宅で死にたくない。わが家にもどりたい。
●男性(福島市、小学校教員)
福島市では今年度、子どもたちに年間2時間の放射線教育が義務づけられ、教育委員会でこの夏休みに冊子を配布した。ひょっとすると文科省のようにとんでもないものか、と思ったが、中身はまともだった。基本的に子どもの健康と安全を守るという視点だった。教委も大変悩んでいたようだ。福島は安全だ、元に戻そうという圧力が教育委員会にもかかってきている。健康を守りたいが地域の声もあるし、という両ばさみの状況だ。
●女性(福島市)
最近東電と直接話をしている。法人は賠償できると聞き、2~3カ月前に申請書類を出した。赤字決算になった分を出して、補塡してほしいと言った。個人で言ってもだめだったのに、会社には書類がすぐに来たので、領収書などをそろえて送った。後日、東電から電話があり「放射線測定器は賠償の対象ではありません」とのこと。事故がなければ買わないものなのでなぜか聞いたら、「申し訳ありません。きまりで損害の対象ではありません」とのこと。また避難した経費を申請したら、「福島市は避難区域ではないので、損害ではありません」。職員を一時避難させたので会社が休業した間の損害については、「休業補償はできません。営業を続けていて風評被害で利益が減った分だけは補償します」とのこと。
まったく、おかしな話で、だんだん腹が立ってきた。昨年に申請した友だちのところは全額補償されたので聞いたら、「その当時はどたばたしていて全額支払ってしまった」という。東電ってどういう会社なんだ?とビックリ。みんなで声を上げないと解決にならない。この人権宣言を、みなさんで声を大きくしていきたい。
●女性(福島市)
子どもを持つ母親として現状を一言。見えない被害って本当にやっかだいなと感じている。危ないといっても子どもたちは実感がない。運動会、プール、河川敷の線量が高いところであえてマラソンさせる。私は学校に抗議したが、物別れに終わった。今の教育現場で安全は確保されていない。校庭でほこりが舞うし、除染した中央は低くても、端っこに行くと高い。中学生、高校生はインターハイや全国大会を目指しているが、なぜそこで安全な環境が用意されないのか憤りを感じている。
子どもたちの人権がふみにじられている。1年8カ月もこんな所で暮らさせて、短期間の保養でいいのか。今からでも避難や疎開をさせていかないと、何かあった時に、誰が責任を取るのか。県は子どもを県外に出したくない。国は県に丸投げ。親たちが声をあげないとどうしようもない。未来を担っていく子どもたちの人権のことを一緒にかんがえていただきたい。
●男性(福島市)
子どもは千葉に避難させている。健康とは病気でないことではない。WHOは健康とは「身体的にも精神的にも社会的にもよい状態」としている。そうなると、ぼくらはすでに健康被害を受けている。子どものことを心配することも「健康被害」である。狭い範囲に健康被害をもっていくのではなく、広く被害と考えて賠償を求めていきたい。
■福島から日本の社会を作り変える一歩を踏み出す
会場からの叫びは、福島の人たちが心身ともに限界状態にあることを示しています。この叫びと怒りを共有する人が、電力を享受してきた首都圏の人、さらに関西の人の中に果たして何人いるのだろうか…。
前日、神奈川県内で「福島と放射能」のテーマで開催された学習会に参加し、数人の参加者が「福島のことが遠くて、何が起きているのか分からない」と発言していました。その声を聞き、私は大変驚きました。関心さえあれば、ネット社会の今、情報は余るほど手に入れることができます。しかし当事者以外の人たちにとっては遠い過去の出来事になってしまっているのです。
これ以上、福島の人たちを犠牲にさせてはいけません。そして、いつまでも、私たちは福島の人たちの悲しみ、怒りに共感する感性を持ち続けなければなりません。
今、福島全域で安全だ、戻ろう!という空気が漂い、マラソン大会などがあちこちで開催され、子どもたちが放射能汚染の環境の中で、強制的に走らされています。安全と断言する根拠は全くありません。安全宣言の裏には、福島の人たちを犠牲にして成り立つ巨大な原子力ムラの利権があります。
憲法に保障されている権利を求めて、福島の人たちは怒り、立ちあがりました。同じ怒りを抱きながら、全ての人に与えられている人権が保障される社会を作っていきましょう。今、福島から日本の社会を作り変える一歩が始まりました。多くの方々のご支援をお願いします。
2012年11月10日
神田香織レポート 2012年10月
「移動教室」を求める院内集会と仮設住宅からの声
■復興予算を子どもたちの「移動教室」に!
10月19日(金)、「復興予算を子どもたちの移動教室に!」の参議院院内集会に参加。
「移動教室」(註)を実行した伊達市から富野小学校宍戸校長、湯田教育長が発言。また福島県内からの保護者、中3の横田君、支援者として川崎からの報告と盛り沢山。「被災者支援法」に熱心な国会議員も。30分前には椅子席がなくなるほどの盛況ぶりだった。
まずは今年の7月に札幌へ移住した中手さん。今までの保養は民間が金銭的な負担をしてきて限界がある。「公」の支援が必要と挨拶。

次に移動教室のDVDを観る。移動教室とはいっても3泊4日で、チェルノブイリの事故後の「年に2回20日以上」にはほど遠いが、実現しただけでも効果は大きい。

宍戸校長(写真中央)は、
「草の上に寝転んで転がっていいと言ったら生徒は目を輝かせ、本当にいいの~!と何度も確認し『やった~』と大喜びで転がっていった。保養先でも、子どもたちは道の真ん中を歩く。両側の草花を避ける習慣がついているから。受け入れ先はびっくりする。線量の高い中通り浜通りの子どもも、ぜひ保養をお願いしたい」
と訴える。さらに、
「移動教室は教育的意義がある、感謝の気持ちを育み、大人になったら恩返ししたいと子どもたちは思っている。子どもは大切にされればされるほど優しく成長できる。結果として放射能からの保養もともなう」と教育的効果を強調していた。
心のこもった真摯な宍戸校長の熱弁に目頭が熱くなる。横田君もしっかりと「僕たちにはストレスがたまっている。子どもたちが保養などで放射能から逃げる時間は平等ではないです。情報格差を埋めるには行政の協力が必要なのです」──この中3の言葉をしっかりと拡散して行きたいし、野田首相らにも聞かせたいとしみじみ思った。
-----------------------
*移動教室
現在も福島県の放射線の高い地区では、子どもたちは学校でも屋外遊びができないなど、不自由な日常を強いられている。たとえ短期的でも線量の低い地区に移動して、日頃のストレスから解き放つ「保養」の取り組みは重要で、新陳代謝の早い子どもの場合、体内の放射性物質を排出できるという意義もある。チェルノブイリでも定期的に行われた。
福島県伊達市では、小学5、6年生と教員を新潟県に送り、3泊4日の「移動教室」を9校で実施。市が支出した事業費430万円に、国や県の補助はなく、さらに不足分はボランティアや受け入れ先の自治体が負担した。
※関連情報:
東京新聞 2012年10月20日 朝刊
10月19日の院内集会の様子(動画)
■赤字運営でもがんばる市民放射能測定室「たらちね」
10月22日(月)
いわき市北部の川前地区は福島第一原発から30キロ圏内。23日の敬老会の仕事がきて、取材も兼ねて行くことにした。
前日いわき入りし、その足で市議の佐藤和良さんに会い、保養移動教室の話をしたところ、いわきの教育委員会が認めなければという。県からの達しがないと動かないから無理では?とのこと。さもありなんとは思うが、川前地区は小中学校一緒で人数も少ない、何とかならないかな~。
佐藤さんのすすめで小名浜の「市民放射能測定室たらちね」によって内部被曝の測定をしてもらった。ほぼゼロでホッとする。ここでは食料も測定している。たまたまニラの測定後で、部屋にはニラの匂いが充満(笑)。たらちねは赤字経営、なんとか市民のため踏ん張ってほしい。
23日、川前に向かう。夏井川渓谷の美しさは変わらねど、線量は0.6μSV/h(毎時マイクロシーベルト)。心から景観を楽しめなくなってしまったいわきの景勝地…。会場は川前から5キロ奥の山間部、桶売地区の「川前活性化センター」。すぐそばの桶売小中学校は除染済み。除染済みということは高くても0.23μSVということ。しかし量ってみると空間線量でも0.26μSV、校庭に入った植え込みで0.7μSVもあった。小中あわせて30数名、「移動教室」を実現するにはもってこいの規模なのだが…。
10月25日(木)
高野山真言宗寺族婦人会「東日本ブロック研修会」に「フラガール物語」で呼んでもらう。途中東北自動車道の郡山で工事渋滞、線量は車中で0.4μSVもあった! 下道へおりた堀野内交差点で0.36μSVも。磐梯熱海から磐越道に入って猪苗代辺りは0.13μSVと低い。会場の東山温泉「東鳳」に到着。講談終了後、会食、宿泊までご一緒させてもらう。いつものようにメッセージTシャツの説明をさせてもらったところ、さすがにお寺の奥様方、少しでも力になりたいと、あっというまに30枚完売!
ディナーショウでは岬花江さんが民謡で鍛えたすばらしい歌を聞かせてくれた。岬さん、96年に久之浜町末続に福祉施設「岬学園かもめパン工房」を設立、障がい者のみなさんとパンづくり。いわきに住んでいたころ、心尽くしのおいしいパンを何度か頂いたことがあった。それが、原発事故で…。借金だけが彼女に残ってしまった。それでも好きな歌を歌って頑張る、といつも笑顔の花江さん、心から応援したい。
■「昔のことゆったってで何にもなんね」──行政に対して受け身の被災者たち
26日(金)は会津坂下町の千葉町議にお願いし、会津若松市松長団地の大熊町仮設住宅へ急遽訪問。

まとめ役の小幡ますみさんが声をかけてくれ、突然の訪問にも関わらず、数人の方が集まってくれた。小幡さんは被災後、バラバラの避難所にいる町民に支援物資情報や役場のお知らせなどを伝える情報誌をひとりで発行し始めた。それがきっかけで「大熊町の明日を考える女性の会」を立ち上げた行動派だ。
まずは自己紹介と、事故からの経過を聞かせてもらって5人目のある男性「昔のことゆったってで何にもなんね、これからのことだっぺ」と名前も言ってくれない(それまで5人の女性は話してくれて事情がよく分かったのだが)。その方の隣の男性も名前もいわずに「役場に家を探して欲しいと言っても動かない、10人家族がバラバラに暮らしているのに」と訴える。
緊急時とはいえ、私は、家は自分が中心となって探すものと思っていたが…。他にも「冨岡や双葉が被曝手帳をつくるのに、大熊町長は『大熊は被曝してないから作らない』と言っている」など役場や町長に対して不満が噴出。それを行政に訴えたのかと聞くと町会議員がここに来ないから…。
きっと事故前まで大熊町は行政サービスが行き届いていたのだろう。町民はその時までは恵まれていたのかもしれない、でも、今は違う。やはり、声は届けなきゃ、届けに行かなきゃ。「私も聞き歩いた皆さんの声を各地に届けてる、みなさん本当の情報を知りたがっています。そうやって連帯して政治を動かしましょう」と私。
大きくうなずく小幡さん。実は小幡さんたち女性の会は声を届けに官邸まで行っている。2011年10月下旬には官邸で直接、細野前原発大臣に会い、さらに今年3月には念押しで「中間貯蔵施設は双葉郡に置き、賠償と一体で進めてほしい」との手紙とファックスで訴えているのだ。
会津の秋は早い。雪がほとんど降らない大熊町。仮設の皆さんにとって難儀する2度目の冬がやってくる。先が見えない吹雪の中をさまようような状況がいつまで続くのか。政府は仮設住宅からの声に真摯に耳を傾けてほしい。
2012年9月23日
原子力発電所の事故に遭った福島は、「FUKUSHIMA」と表現され、その名は国際的に知られるようになりました。永久的に放射能の被害を受ける福島の未来を考えるために、市民の目でチェルノブイリ事故から学ぶことが大切であると考え、私たちはこの9月に「チェルノブイリ・ミッション」というツアーを企画しました。「チェルノブイリ救援・中部ネットワーク」のコーディネートのもと、当NPOから5名の会員が参加しました。
●実施日:2012年9月2日~9日
●参加者:NPO法人ふくしま支援・人と文化ネットワーク 会員5人/ 添乗員、コーディネーター(チェルノブイリ救援・中部ネットワーク) 計7人
以下、主な訪問地のレポートです。
チェルノブイリ視察ミッションレポート
未だ処理は終わらず。経済問題が復旧の足かせに
理事 小林 一
■チェルノブイリ原発、爆発現場まで150mに接近
チェルノブイリ視察ツアーは、初日の9月3日から本命の原発跡地に向かいました。原発から30キロのところの最初の関門で専門のガイドが乗り込み、少し緊張が走ります。10キロの関門を過ぎると全く人の住めない放置された地域、途中で寄った廃墟となった幼稚園の入り口の大きな樹の下はホットスポット、1mの高さで、6.6マイクロシーベルト/時の放射能がありました。
爆発した4号炉から150mのところまで来て車の外にでました。
爆発した4号炉のいま
青空の下、真近に見える4号炉は一通りコンクリートの石棺に囲まれ、大惨事の跡はほとんどみえません。立っているところも放射能も2マイクロシーベルト/時程度です。ただ、炉の屋根の部分は損傷が進んでいて、それを覆うための新しい石棺の構築のための工事がすぐそばで進められているのですが、経済的に豊かでないウクライナが旧ソ連邦から独立したこともあり必要な資金が集まらないとのこと、深刻です。未だ処理が終わっていないのだということを改めて思い出させてくれます。
次に、原発から1.5キロにある原発関係者が住んでいた人口5万人のニュータウン・プリピャチの跡地に行きました。事故直後に全員移住、その後は放置されたままの廃墟となっています。遊園地の朽ちかけた観覧車、雑草、樹木が繁茂しはじめたコミュニティ施設地区、夏草や・・・の世界です。汚染度は今も3.1マイクロシーベルト/時です。
プリピャチの朽ちかけた観覧車
■ナロジチの菜の花プロジェクトと覇気のない子供たち
4日は、爆発地点から70km圏のナロジチ地区で、まずは救援中部の方々が2007年から進めている菜の花プロジェクトを視察しました。汚染された農地に菜の花を植え、放射能を含まない菜種油を搾取し、残りはバイオマスとして利用することで農地の除染を進めながら少しでもお金にしようというもの。今回はバイオマスでガスが発生させている装置を見学しました。ジトミール州のプロジェクトとして地元の大学と連携して、2,500haという広大な土地を使ってより、実用的なスケールでの展開を図ろうとしています。このようなプロジェクトが日本のNPOによって進められていることに感銘を受けました。
ナロジチ地区では幼稚園と病院を訪ねました。幼稚園では園児たちの歌や踊りの歓迎、一同ほほを緩めたのですが、先生方の話を聞くと、住民の半分以上が移住した汚染度が高いこの地の園児は全員が呼吸器、循環器等何らかの障害を抱えているとのこと、そういえば何となく覇気のない感じでした。中央病院での長くこの地域で医療を続ける副院長の話もこれを裏付けるもので、今でも風邪をはじめ心臓、血管、癌等が多いとのこと、免疫力が落ちているのでしょう。子供2千人に1~2人が毎年甲状腺ガンを発病しているそうで、福島のことを考えると厳しいものがあります。汚染度の高い当地での勤務を希望する医者が不足しているという話にも身をつまされました。
■生き残った消防士の話
5日は140キロ圏のジトミール。最初に、移住者のお世話をしているホステージ基金の事務局を訪ねました。代表のB・キリチャンスキーさんは公式の資格をもったジャーナリスト、事故後の移住者の状態やそれに対する政府の対応等についてたんたんと語られました。一番印象的なのは、やはり資金問題、最初は日本のカレンダーを売ったお金で仮宿舎を用意したという話も聞きました。ソ連邦崩壊のなかで資金状態は先細り状態、地域の貧困というのが大きな課題です。ナロジチの幼稚園では3食の給食代が日本円で一日一人当たり100円、十分なビタミンが与えられないという話を聞きました。ジトミールの学校で高校生と小学2年生のクラス訪問しました。こちらの方は、爆心地から遠いせいか、将来の夢を語る小学生の屈託のない笑顔の方が印象的でした。
元消防士ボリス・チュマクさん 私にとってもう一つのハイライトは、ジトミール消防博物館での、事故のときに消火活動の現場を指揮をしたボリス・チュマクさんのお話でした。最初の消火活動で多く(28人)の消防士が亡くなったことは聞いていたのですが、一か月近く後の3、4号機の間の火災のときは、最悪世界中に汚染が広がる恐れがあるなかでの決死の消火作業を行ったこと、そこで82人の消防士が亡くなり、生き残った方も多くは50歳までに亡くなっているとのこと、消防服やガスマスクの実物を前にお話しはリアリティがあり、改めて消防士さんたちの働きぶり、職業倫理に頭が下がりました。
チュマクさんは現在74歳、現在も亡くなった同僚の家族や後輩の消防士の支援活動を続けています。内臓のほとんどを摘出しているそうですが、修羅場を潜り抜けた方らしい奥深い眼差しと穏やかな表情でのしっかりとした語り口は、語られる内容と合わせ、人間の強さを感じさせ、崇高なものでした。
■国や地域の貧困が問題を深刻にしている
6日はキエフで、上述のプリピャチから集団移住した方々の自助組織のゼムリャキを訪ねました。事故後も事故処理関係の仕事についているので、体調を崩したり、亡くなる人が多いことがここでも語られます。一人の主婦からは、移住に際し1万ルーブルが支給されたがソ連邦の崩壊後のインフレで貯金が亡くなったという話を聞きました。事故そのものだけでなく、厳しい経済情勢がそれに輪をかけて家計を苦しめたようです。
繰り返しになりますが、国や地域の貧困が問題を深刻にしているということが、今回学んだ大きなことです。その中でゼムリャキの人たちに若者世代のことを聞いたところ、自分たちは、明るい未来に向かって生きているという趣旨の強い答えが返ってきたのには、こちらが元気をいただきました。
その他、キエフの町のこと、福島での応用などなど、書き尽くせないのですが、百聞は一見にしかずでメインの原発関係視察に絞った話で報告を終えます。団長役を務めてくださった郡司さんはじめ、コーデイネーターのJさん、旅行のお世話をしてくださったYさん、通訳のモンゴル人・モゾロフさん、団員のみなさん、ありがとうございました。
2012年8月8日
8/4-5 オーガニックコットン畑で汗を流しました
いわき市再生プロジェクト 猛暑が続く8月4~5日、いわき市の援農ツアーを実施しました。参加者は当団体の会員はじめ27人。今回は、神奈川総合産業高校福祉委員会の生徒5人と先生2人も参加しました。このツアーの目的は、津波被害と放射能問題でダメージをうけている農業の再生に取り組んでいるオーガニックコットン畑の雑草刈り支援です。この春から種をまき、今では26か所の栽培地でコットンの苗木が育っています。
4日、朝8時30分出発した私たちは、12時30分にいわき市平の「スカイストア」に到着し、手作りのランチをご馳走になりました。その後、ストアの運営委員会委員長の松崎康弘さんとNPO法人ザ・ピープル理事長の吉田恵美子さんによる、いわき市の現状についてお話を聞きました。
松崎さんから「苦しい時、いわき市に来てくれた皆さんの勇気が、生きていく力になりました」とのお話があり、福島の人たちの辛さと生きていく厳しさを垣間みました。また、放射能に対しては、生産者自身が検査して数値を明らかにしていくシステムを確立していくことなどを話されました。 また、オーガニックコットン畑の土壌についても、筑波大学の支援を得て調査し、数値が安全の範囲であることも、吉田さんから報告されました。
お話の後は、さっそく身支度をして若者のグループが自主的に栽培している地域に向いました。梅雨明けからいわき市には全く雨が降っていません。そのため、水の確保が課題となっています。炎天下、しかも一番暑い14時からの作業開始は、厳しい労働となりましたが、皆黙々と雑草を刈りはじめました。
開始から2時間弱。とうとう、若者の栽培地のオーガニックコットン畑は苗が一望できる状態になりました。 高校生も初めての経験にもかかわらず、汗を流しながら作業をしていました。
作業後は、満足感を味わいながら近くの温泉にひたり、汗を流しました。 また、4日夜は、小名浜港の大花火大会があり、花火を楽しみました。
(刈り取った栽培地を背景に) (若者のグループです。笑顔がいいですね)
翌日5日は、援農と磐城農業高校訪問に別れました。援農は、ザ・ピープルの栽培地です。推進している立場から、苗のフォローは後々になってしまい雑草に覆われた栽培地での作業は3か所、9~12時まで作業をしました。暑さとの戦いの3時間でした。
磐城農業高校は、3・11の地震よりも1か月後にいわき市を直撃した地震により、校舎は崩壊してしまいました。現在は仮設校舎で学校生活を送っています。毎日、崩壊している校舎を見ながら勉学する生徒たちの心を思うと、切なくなりました。
神奈川総合産業高校の福祉委員会のメンバーは、昨年、東日本震災の募金活動に取り組みましたが、思うように募金が集まらず、関心を持ってもらうにはどうしたら良いのか・・と悩んでいた時に、今回のツアーの企画を知り、参加しました。福島のことを他人事ではなく、思いを馳せるために、9月28・29日の文化祭では、ツアーの報告やビデオを流しながら、いわき市の現状を報告するとのことでした。磐城農業高校の窓口の草野先生と生徒2人が対応してくださり、文化祭に農業高校の生徒が参加する話までに至りました。農業高校で評判の高いイチゴジャムを試食・販売して、福島への関心を高めよう・・と話がとんとん拍子にはずみました。これを機会に、福島の高校生と首都圏の高校生の顔の見える関係が築かれ、それが福島の若者の希望に繋がることを願い、学校を後にしました。
お昼は、現地の女性たちの手作りスープに疲れを取り、津波の被災地視察に移動しました。 メディアでは、被災地の復興のニュースが扱われているため、多くの人たちが復興されていると思われているかもしれません。しかし、津波の被災地に立ち、3・11以降遅々として進んでいない現状を直視し、多くの参加者が言葉を失いました。 (ペイントで花を咲かせている手つかずの被災地)
今回の援農ツアーで初めて被災地福島を訪問した人たちは、今後も福島へ関心を持ってくれることでしょう。福島の人たちが孤立しないように、また互いに知恵を出し合っていくために今後も、当団体は首都圏と福島を結ぶ役割を果たしていきたいと思います。 秋には、綿摘みが待っています。
オーガニックコットン事業援農ツアー報告


(開始前の畑)
(黙々と暑さと闘いながら雑草を刈る)
(完了!)
(良く働きました)



(高校生と先生たち)
(豊間中学校に積まれた瓦礫)
(綿の花)
2012年6月26日
6/23-24 「Sharing in 新宿2012」に協力。福島のお米などを販売
【東京】6月23-24日、新宿の全労済ホール/スペース・ゼロで、震災復興支援チャリティコンサート「Sharing(シェアリング)」が始まりました。このコンサートは、3.11の被災を受けた東北の人々を音楽の力で勇気づけようと昨年から始まったもので、「NPO国境なき楽団」の活動を行っている庄野真代さんが広く仲間のミュージシャンや音楽関係者に呼びかけて実現したものです。
今年は6/23-24の新宿コンサートを皮切りに、7月には宮城(仙台港、石巻市)、福島(会津若松市、福島市)を回ります。東北各地のライブは入場料が無料で、その基金には新宿コンサートでのチケットやCD売上げが充てられます。
「Sharing in 新宿 2012」には当会も「国境なき楽団」「福島復興プロジェクトチーム・花に願いを」などと共に協力団体に名を連ねました。
2日間昼夜3公演を通して、26組、総勢40人を超えるアーティスト&バンドが出演、800名の来場者がありました。私たちは会場入口で福島県伊達郡国見町産のコシヒカリ米を産直販売、またいわき市在住のデザイナーによるTシャツの販売も行いました。
24日昼の公演では神田香織が挨拶、原発事故のために復興が進まない福島の現状を訴えました。また、23日の公演には、福島支援のボランティアを続ける女優の秋吉久美子さんが飛び入りで挨拶しました。
お米、Tシャツを販売する神田香織ら会のメンバー
当会が販売したお米は、宮城県との県境に位置しながら「ふくしま産」というだけで風評被害に苦しむ国見町石母田地区の農業グループ「あつかしファーム」から直送されたもの。きちんと放射能測定試験を受けており、セシウムは検出下限値以下(検出されずと表示)か、たとえ検出されても最大6.2Bq/kgで、国の現在の暫定規制値500Bq/kgに比べるとかなり低いものです。この数値は、場合によっては他県産のお米よりも低いこともあります。
データをもとに放射能を正しく理解し、消費者の判断で消費することで、福島の農業生産者を支援できればと考え、販売に至ったものです。
神田香織や秋吉久美子さん、庄野真代さんや司会のバンブー竹内さん(文化放送アナウンサー)らが会場で呼びかけてくれたこともあり、幸いにもこの2日間で、2kg・1500円の小口パック45袋はすべて売り上げました。
来場のみなさま、コンサート関係者のみなさまに厚く御礼申し上げます。
■石母田米販売用チラシ[当会作成]
■販売趣旨(福島のお米の放射能について)[当会作成]
なお石母田のお米(「たすき米」がブランド名)は通信販売で購入することもできます。
■石母田のたすき米注文表
■「あつかしファーム」の紹介
当会の会員の何人かもすでに試食していますが、コシヒカリならではの食感豊かな大変おいしいお米だと評判です。
■「Sharing in 新宿 2012」出演アーティスト(順不同)
[6月23(土)]五つの赤い風船、西岡たかし、中川イサト、青木まり子、 金子マリ with 森園勝敏、なぎら健壱+松本典明、中川五郎、 三上寛、斉藤哲夫、中山ラビ、四角佳子、よしだよしこ、 mellow voices(青木まり子、四角佳子、竹田裕美子)田川律&わいわい合唱団江東
[6月24(日)]●昼の部:原田真二、水越けいこ、猫、坂田おさむ、平林龍、相曽晴日with明日香&古村比呂●夜の部: 庄野真代、マイク眞木、日野美歌、テミヤン、普天間かおり、カズン
■Sharing 2012 今後の予定
2012年5月19日
秋田市で原発避難者と交流
神田香織
●「帰りたくないんですか」
5月19日、ふだんは“たんすのこやし"になりがちな着物を着て伝統文化と料理をたのしむ「川反夜会」に呼んでもらいました。場所は秋田の繁華街で有名な川反の老舗「割烹かめ清」さん。女将の友子さんはとても熱心で、あらかじめ私の講談を聞いておきたいと、なんと、1ヶ月前の千葉での「チェルノブイリの祈り」と奥会津の「フラガール物語」公演に泊まりがけで来てくれたほど。
当日は昼の部で原発事故の避難者のご家族10名を招待してくれました。休憩時間は皆さんと歓談、3時間もお話を聞くことができました。
今、1067人の方が秋田で避難生活をしているとのこと。原発立地地域から避難しているご夫婦たちはもう住めないと諦めていらっしゃる様子だったが、そんな様子に「どうしてそんなに普通に話せるんですか、帰りたくないんですか!」と声をあらげたのは、郡山から幼い娘さんと自主避難したまだ30歳の方。夫は農家の長男で会社勤め、実家の両親や兄弟たちも帰ってこいコール。彼女は目に涙を浮かべながら「帰りたい」と。「娘が毎日言うんです、パパに会いたい…」。おそらくそれは彼女の気持ちでもあるだろう。「秋田は言葉も違うし、やはり、福島とは違う」と彼女。きっと、秋田にとけ込むのをよしとしない自分がいるのだろう。なるべくお連れ合いに来てもらい、一緒にいる時間をふやして、それから秋田での生活に自分からなじもうとしてみてと、私はありきたりのことしか言えませんでした。

●「僕たちは国に捨てられたんだね」
また、南相馬から自主避難し、仕事も秋田で見つけた40代の女性は小学生の息子とふたりぐらし。「南相馬の葬儀屋で仕事をしていた。津波で亡くなった方々が次々と運び込まれている状態で、仕事をやめて避難した、一大決心だった」と当時を振り返ります。
「息子が2人、上の子は高校生で、何度言っても避難しないという。仕方がない、今上の子は実家の両親と暮らしているが、心配で心配で」と涙を流す。そして「息子なりに勉強してこう云っている。『自分たちは国に捨てられたんだね、おかあさん』と」。
高校生に、子どもたちに、こんな絶望的な言葉をはかせるこの国の政府を、私たちは税金を払って養う価値があるのでしょうか。2月に静岡での「さよなら原発1000万署名」集会でご一緒した中田麻意さん(須賀川市出身、秋田県仙北市に転居)のことを聞いてみた。中田さんは元旦の地震で予定をはやめ秋田へ引っ越した。返ってきた返事に私は自分の耳を疑った。「彼女はちょっと過激なので連絡取ってない」とのこと。「脱原発とか、反原発とかはっきり言っているから」と。えっ、これほどの目にあいながら皆様は「脱原発」「反原発」でないの!? 私は当惑しながら思いました。こういう方々にこそ「チェルノブイリの祈り」を聞いてほしかったと! それにしても永年の刷り込みは大きいです。
2012年5月11日
南相馬市小高地区──「警戒区域解除」の街へ
神田香織
●まるで1年前にタイムスリップしたような
5月11日、原発から20キロ圏内の警戒区域、4月16日から解除となった南相馬市小高区へ入りました。市内は平常通りの日常があるのに、小高区はまるで一年前にタイプスリップしたようでした。商店街は崩れた家々がそのまま、書店の本もそのまま…。そしてだれもいない小高ふれあい広場のスピーカーからは突然「踊ろうよマンボ、私と愉快に、愛してマンボ~」という演歌が聞こえてきてびっくり。駅の自転車置き場には一年以上前の、朝のあわただしさを残したままの自転車がもたれあっていました。小高神社では、石灯籠や鳥居の上部が落ち、それがシートの上に並んでいる。修理のおじさんが「どこからはじめたらいいか…」と呆然としている。地震は相当強かったようで、双葉町の人が「双葉よりひどい」とおじさんに言ったそうです。

セブンイレブンは泥棒にあらされたまま…。まさに事件現場です。酒盛りでもしたのだろうか、駐車場にはワインやウイスキーの空き瓶が転がっていました。

3月11日の新聞もそのまま。海の方へ向かうと津波に襲われた直後のような風景。あちこちにひしゃげた車が転がっていました。開拓地の圃場は海水がたまって、そこに鷺が羽をやすませていた。線量は0.3~0.4(マイクロシーベルト/時)ぐらい。海からの風の影響か、それほど高くはありません。一階が津波で破壊された家の方々が写真を撮っていました。「まだ20年しかたってないのに…」と言いながら。
果たして小高へ戻って来る人がいるのだろうか。もしいたとしても、ここで生活を再建させるのはどれでほど時間がかかるのだろうか…。それまで4号機は無事?
「小高区」というタイムトンネルをくぐり現実にもどって、帰りも6号線が通れないからまた飯館村を通過していわきへ向かいました。飯館の田んぼは荒れ放題のタンポポ畑。野山の碧がさまざまな色合いを見せている、新緑にはちがいない飯館村の風景でした。
●もう故郷には戻れない──楢葉町から避難された方々のお話
12日午前11時、いわき市中央台の仮設住宅へ。6畳2間に台所、洗面所、佐藤さん宅の仮設住宅に集合してくれました。佐藤さんは元郵便局員。私がいわきに住んでいた頃、仕事で呼んでくれた方です。お仲間もふくめ7人。お赤飯やおにがし、蕗の煮ものなど昼食を準備していてくれていました。美味しくいただきながら世間話?のような雰囲気でお話を聞くことができました。みなさん楢葉町の方で楢葉町民が住む仮設はここでは200戸、他に広野町の人たちの仮設もある。いわき市には双葉郡8町村から2万5千人以上避難していて、仮設住宅は3000戸、いまだに建設中の物もあるほど。

佐藤さん一家がすむこの木造住宅はちょっとした山小屋風でロフトがついていて寝ることもできます。プレハブの仮設に住む人からは同じ広さでも天井が高いから開放的、木造の方が良かったとの声も。いずれも防音は問題。隣のトイレットペーパーのカラカラ音が聞こえると言う。若い婿さんが同居のばっぱ(姑)に「ばあちゃんは何歳まで生きるんだ」と聞いたとか(笑)
楢葉の町民数は7800人、うち津波犠牲者は11人。4月に警戒区域解除となったが、戻りますかと聞くと全員「いや~戻れない」と。線量は1.2から2.8ぐらいあるという。たとえ戻っても仕事はないし、病院もないし、買い物も不便で魚もとれないし、野菜や米も不安とくれば、たしかに、戻れと言う方がおかしいというものだ。特に若い人たちはもう戻れない、ときっぱり言っているそうだ。

当時の様子を昨日のことのように話してくれました。
3月11日3時36分津波がきて、東電関係者たちは4時半頃には原発が危ないと知る、そして、11日の夜には栃木や茨城ナンバーのバスが東電社員を逃がすために集まり、逃がした。まるで「関東軍」のようだ。住民はどうか。3月12日朝8時に放送された防災無線は「南に逃げなさい」というだけでその理由については一言もなし。訳も分からずとりあえず「2、3日でいいべ」と勝手に決めて、着の身着のまま避難したそうだ。私が「原発事故」と思わなかったのかと聞くと、まったく思いもよらなかったと。これは意外だった、私などはここ20年ぐらい地震の度に心配したものだが…。
その後の苦労は大変だったそうで、皆さん体育館や親戚を頼ったりと平均5~7回避難所を経て昨年7月にこちらへ入居された。
避難所にもあたりはずれがあったそうで、食事が良すぎて8キロも太ったという人もいた。揚げ物が多く昼食は丼もの、作ってくれた人に悪いからと残さずいただいた結果だそうだ。また千葉に避難した方は、いわきナンバーの車をみて小さい子たちが逃げ出したとも。この避難から得た教訓としてある方がきっぱりと「常に下着も服もいい物を着ること。お金は多めに持っていること」。なるほど~。
●敵を間違えないでほしい
楢葉町へは許可証がないと入れません。6月には一時帰宅に同行させてもらうことになりました。
短い時間でしたが、みなさんの実感を聞くことができました。今は笑って話しているが、この仮設住宅に辿り着くまでどれほど涙を流したことか、容易に想像がつきます。愛犬を保健所に送らざるを得なかった方の心境、数年かけて日本中からいい材木を集めて造った屋敷をあきらめきれない無念。
それでも、いわきの人たちと補償金暮らしの彼らの間には溝ができつつあり、深刻さを増しています、これはいわきのみならず福島県内を覆っている暗雲です。でも決して敵を間違えないでほしい。「政府も東電も事故の責任をとって辞めた人は一人もいない」ことをわすれてはならないのです。
2012年4月26日
私たちはチェルノブイリとフクシマを2度と繰り返さない!
4/23いわき「チェルノブイリとフクシマを結ぶつどい」に参加して
神田香織
4月26日──きょうは、1986年に起きたウクライナのチェルノブイリ原発事故から26年目だ。4月23日にいわき市で、「チェルノブイリとフクシマを結ぶつどい」という催しがあり、私も参加した。ベラルーシから来日した、小児科医と元教師の二人から事故直後から今日までの報告を聞いた。お二人が住んでいる場所はチェルノブイリから250キロ離れているが、3分の1が飯舘村ぐらいの汚染度だ。5年間暮らしたが除染しても線量が下がらず、それから移住をはじめたそうだ。
●未来に対する不安はいまもなお──バレンチーナ・モロゾーバさん(元教師)
きょうフクシマの避難区域に入り話を聞いた、帰りたい人の気持ちが良くわかる。
チェルノブイリの事故は数日間知らなかった。季節がいいので屋外にいた。事故を知ってまずは子供のことを考えた。
事故後の5月に子供達を避難させようとなった。親たちを説得、サナトリウムに避難。国や地域の自治体がどうするか考えている間、避難させた。
避難は1986年から今も続いている。
事故後に地域の教育関係者の学習が始まった。最初は年に2回、今は年に1回。放射能から身を守る授業が始まり、それは今でも続いている。
親を説得するのも教師の仕事。たとえ農作業の手伝いがあっても年に2回サナトリウムでの保養の必要性を訴えている。親には放射線量を量るよう、指示している。日本でも同じような取り組みがあると知った。
汚染の高いところの子供たちは制服を2着持っていて、学校にきてから着替える。
事故後4年間は国が除染したが、ある地域では効果なし、移住をはじめる。もちろん、引越しするかどうかは個人の自由だ。
自分も移住で悩んだ。6歳、8歳の子供がいた。故郷を捨てる困難と待っている困難を比べて残ることにした。できるだけ、被曝をしないよう気をつけ、私たちはその地で生きて行くことにした。
一番大変なのは未来に対する不安だ。今では線量が下がったので細かくは測らないが、森のもの、川魚などは今でも測っている。年に2回の検診も欠かさない。
チェルノブイリとフクシマを2度と繰り返さないように願う。
●現在でもとにかく食品には気をつけるようにしている──ベーラ・ルソーバさん(小児科医)
ベーラさんは最初にチェルノブイリ住民からのメッセージを読み上げた。
「今回のフクシマの事故、津波の被害に心を痛めています。私たちは26年も汚染地区で生活しています。健康と無事をお祈りします」
1986年5月から避難が始まった。秋には小児科医、内分泌医などのミンスクやモスクワの医師団がやって来てエコー検査、ホールボディカウンターなどを開始した。健康被害のある子供が出てきた。その子供たちは州の病院に送られ精密検査を受けた。
事故後、調査委員会が作られた。その委員会で避難、除染など様々なことが決定された。4年ごとに被害結果をまとめる様になった。
ゴメリ州などに放射線病院が開設された(ここは私=神田も7年前に訪ねている)。被曝した人たちが登録され追跡調査。地域の汚染度。食物の汚染度を調べている。25年後、汚染は減少、この5年間は子供の内部被曝はなし。
しかし現在でもとにかく食品には気をつけるようにしている。マキの線量も量る。野生動物の肉も井戸水、水道水も量る。当初と比較すると10分の1に減っている。ほとんどの食べ物の75パーセントが基準値以内だ。
甲状腺の病気は事故後増加した。事故後2・3時間後にヨウ素を飲むことはなかった。日本人は普段からヨウ素をとっているが、自分たちはもともと食べ物にヨウ素が少ない。ミルク、パン、塩などにヨードを足したものが販売されている。まずしい家も多いから。ビタミンを渡している。
できるだけ、放射線を体外へ出すため子供たちの保養も行われていた。
私たちの住む地域では、有給休暇の延長、給料の増加、子供の医薬品が無料、幼稚園費や、小学校の給食が無料など国からの補償がある。実は自分が住む地区の母親たちといわきは、チェルノブイリ事故後から関係があった。いわきの家庭が夏の間、私たちの地区の子供を受け入れてくれたのだ。
最初の1・2年は妊婦が悩み、妊娠の最初の頃の検査をする。胎児が障害をもっていると中絶。事故後2、3年は精神的なストレスから神経、心臓系でなくなる人が増えた。放射能と関連した皮膚、肺、膀胱がんが増加した。
ベーラさん(左端)、バレンチーナさん(右端)と一緒に。
●ベラルーシでは原発を新たに建設中。日本ではそれを許さない!
お二人の話を聞いて、いまからでも遅くないから政府は瓦礫の処理、食物の取り方など謙虚に学ぶべきだと確信する。福島原発事故の未来の姿がここにあるのだから。「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」としては、せめて学校が休みの間だけでも、子供たちを安全な地区に待避させる「リフレッシュ保養」に力を入れていきたいと思う。
最後に、大熊町の人からの質問があった。「事故後山梨へ避難。福島から来たというだけで子供がいじめられた。近所付き合いを断たれた。ベラルーシでも偏見はあったのか?」
ベーラ・ルソーバさんはこう答えた。
「大熊町は様々な汚染がある。自分たちが移住するかしないか悩んだ同じような数字だ。汚染地区の子どもは同じような目にあった。握手を避けられたりした。子供たちは“チェルノブイリのハリネズミ"と呼ばれた。大切なのは希望を失わずに正しい知識を与えることだ」。
そのベラルーシではいま新たな原発を建設中。国民投票で決定したのだ。経済が支配する現実があると首をすくめるベーラさん。
我が国はそうはさせない!と決意を新たにした一日だった。
2012年4月21日
4月20日・21日連続! 神田香織のイベント情報
許すな再稼働 原発よりいのちがだいじ
さよなら原発 4.20アクション
◎日時 2012年 4月20日(金)
18:00開場 18:30開演
◎会場 大井町きゅりあん大ホール(東京都品川区)
(JR 大井町駅徒歩1分 TEL.03-5479-4100)
◎内容
語り:神田香織
講演:落合恵子
演奏:橋本美香
◎参加費 500円(高校生以下、震災避難者無料)
◎主催 さよなら原発東京南部1000人アクション実行委員会
リンク

みやもと三百人劇場公演・神田香織独演会
チェルノブイリの祈り
◎日時 2012年 4月21日(土)
14:30開場 15:00開演
◎会場 千葉県船橋市・宮本公民館
船橋市宮本6-18-1(船橋大神宮そば)
◎内容 講談:神田香織「チェルノブイリの祈り」
◎入場無料(全席自由)
◎主催・問合わせ・申込み 宮本公民館 TEL.047-424-9840

2012年4月17日
経産省前テントひろば
「再稼動反対大規模集団ハンガーストライキ」記者会見での神田香織の発言
福島県いわき市出身、講談師の神田香織と申します。
26年前から「はだしのゲン」のマンガを講談にして語ってまいりました。
26年前、チェルノブイリの原発事故がありました。
その時からチェルノブイリの講談も私のテーマになりまして、
10年前からチェルノブイリの講談を語り続けております。
そして、去年故郷があのような事故にあってしまいまして、もう、悔しくて悔しくてたまりません。
なにより悔しいのは、その後の処理の仕方です。
日本は、「あれは共産国ソ連の事だから事故が起きたんだ」と言いますが、
そのあと、むこうは子どもたちを逃がす事をいたしました。
大勢の人達を、たとえ銃を突き付けてもいいから、
最も危ないところからはすぐにバス1000台、即座に乗せて逃がしました。
ところが日本はそういう事をしてくれませんでした。
それどころか、未だに子どもたちに被ばくをさせて平気なんです。
そして今日警戒区域が解除になったと、
あんなにいつ4号炉がどうなるか分からないようなところに人々を戻しているんです。
しかも、水道も出なければ電気も通らない。
お店もなければ仕事もない。
そういうところに、戻らせて、帰還させているんです。
これが人間の仕業でしょうか?
5月3日は憲法記念日でございます。
福島県人に基本的人権はあるのでしょうか?
住むところも、子どもの命も、
それから寝るところも、
全ての人権がこのようにないがしろにされて、
それでもまだ原発を動かそうとするこの国の在り方!
これは非常に許せるものではありません。
わたくしは、実は8日前から個人的な理由でお酒を断っております。ー笑ー
本来はハンストにもお付き合いさせていただきたいんですが、
食べる方は止めることができませんで、
わたくしは5月5日までお酒を断ち続けることで、皆さまとご一緒に行動をしたいと思
います。
そして20日、大井町のきゅりあんで、さよなら原発1000人集会というのがございます。
落合恵子さんの講演の前に、わたくしは20分間時間をちょうだいして「お語り」をい
たします。
「おタカリ」ではございません。
この「お語り」で何を語ろうかと思いますが、
今回様々な事が頭の中を駆け巡っておりますが、少しずつ整理もする意味で、
福島原発の講談を初初演させていただきます。
ー拍手ー
短い時間ではございますが、
短い講談になるとは思いますが、
それをキッカケにこれからいろんな処でいろんな人の、
「100人100話」という本も出ましたけれども、
いろんな人の思いを講談で語り続けていく。
そしてそれの輪を広げていく
語りべの要請もしていきたいと思っております。
失礼いたしました。
みなさん頑張って下さい。
ー拍手ー
2012年4月13日
福島原発事故はいまだ終わらぬ犯罪である
──いわき市議会議員・佐藤和良氏
4/13『東電原発犯罪』出版記念講演会から
永年、福島と新潟で反原発運動にかかわってきた人々による『東電原発犯罪』(創史社)という本が4月に出版されました。編著者らが集った出版記念会が4月13日、東京・文京区で開かれました。 著者の一人、佐藤和良・いわき市議会議員は、県立磐城高校時代に三里塚闘争(成田闘争)に参加したことを理由に不当な停学・退学処分を受け、その後、福島原発に反対する運動にかかわり、現在は地元に密着した無所属・市民派の市議会議員としてニ期目を迎えています。脱原発福島ネットワークの世話人の一人でもあります。 出版記念会における佐藤氏の講演をまとめました。なお、共著者の矢部忠夫・柏崎市議の講演を含め会の全体の内容はUstreamでも視聴できます。(文責・広重) 講演する佐藤和良氏 佐藤和良氏講演内容 ▶「仮の町」構想では住民の声が無視されている 去年4月に東京の総評会館で話をした。東京で話をするのは久しぶりだ。「3.11」とりわけ福島原発事故により私たちは故郷を喪失した。暮らし・地域コミュニティ、なりわい、人間関係が壊滅的な打撃を受けた。なかでも双葉郡は顕著だ。 福島からの県外避難民15万人に達する。汚染地帯にとどまるのは困難であると、新たな避難が今も続いている。一方で、家族ばらばらの生活に経済的な重圧を感じ、やむをえず戻ってくる人もいる。 私が卒業し損なった(笑)磐城高校も入学者が減っている。入試の合格点が下がっている。東京など県外の高校に進学する子供が多いと聞いた。ある商店主との話の中で、「いわきの人材が減る。これから復興と言っても、はたして可能なのかどうか」という声が出た。「いわきで生きていけるかどうか、ここ3年できまる」とその人は言う。 いわきでは、双葉8町村から3万人近い避難者を迎え入れており、住宅難が生じている。いま「仮の町」構想が出ている。福島第一原発事故で避難を強いられた双葉郡の自治体がいわき市に新しいコミュニティをつくりながら、仮住まいしようというものだ。一見美しく聞こえるが、これはおかしい。これは元の居住地への帰還が前提の話だ。しかし、本当に帰還できるのかどうかは誰にもわからない。 いま国と立地町村の首長らが「仮の町」構想でせめぎ合っているが、住民は蚊帳の外に置かれている。住民の意思は違う。土地の買い上げを希望している人が多い。新しい土地で新しい生活に踏み出したいと願う人が多い。 このままでは蛇の生殺しだ。心が折れそうだ。 実害だけでなく、風評被害もある。福島出身者との縁談が破談になるなど、すでに結婚差別が始まっている。いわきでも今年に入って4件あると聞いている。 ▶福島原発被災は終わっていない いわきの一次産業への打撃は大きい。タケノコ、シイタケなど食べられない食品は多い。 放射能市民測定室が活躍し、ホールボディカウンターによるチェックなども行っている。しかし、被曝は累積する。海の汚染も蓄積する。原発の循環水の漏れなどは、たまたまニュースになることもあるが、実際は常時漏れている。汚染水は徐々に沿岸流に乗り、太平洋全体を汚染している。これは宮城、三陸沖まで広がるだろう。河川を通じた首都圏の放射能汚染も深刻になるだろう。 しかし、こうした被曝の現状を忘れさせる動きもある。国民側にもその現実を見たくないという意識がある。 福島原発の原子炉はいまどうなっているのか。いわきでも始終地震がある。かなり頻繁に起きている。 昨年4/11の余震で断層がぜんぶ動いた。東北大の研究グループの報告によると、双葉活断層といわき活断層は同じ構造をしていることがわかった。双葉断層は70kmあると前々から我々は主張してきた。福島第二原発の直下まで伸びている。この断層が再び活動すれば、新たな原発事故の危険性もあり、その危機は高まっている。 先日、東電の小森常務をいわき市議会に呼んだ。福島第一の4号機では燃料棒を2年後に取り出すというが、これは危ない。深刻な危機は続いている。放射性廃棄物を大気と海洋に放出している。地震に弱い状態が続く。福島原発被災は終わっていない。 これから起こることについて、想像力が働かない人が多い。しかし、福島に限らず、あと一つ原発事故が起これば、日本は終わってしまうことだけは、たしかだ。 いわき放射の市民測定室は、県内では一番機材とスタッフが揃っている。開設当初は大変混み合っていた。いまも一ヶ月先の予約で満杯だ。子どもを守りたいというお母さんたちの要求にはだいぶ応えてきた。 今後はガンマ線だけでなくアルファ、ベータ線測定もやりたい。ゲルマニウム検知器も1台欲しい。放射能測定では市民が先行し、行政は後からついてくるという状態になっている。 ▶福島原発被曝者援護法と福島原発告訴団 もう一つ私たちが求めているのは、今回の原発災害に対する「福島原発被曝者援護法(仮称)」の策定だ(制定を求める2012.4.18衆議院内集会の模様は、こちらで)。昨年12月のいわき市議会で法の制定を求める意見書を全会一致で可決し、国に提出した。国が今回の事故に当たって情報開示しなかったことについて法律違反を認めること。1ミリシーベルト以上の被曝者へ年に2回の健診を行い、被曝手帳を発行すること。万一疾病が発生したり、仕事ができなくなったらその生活補償を国家に求めること、などが法案の趣旨だ。 私たち以外にも、民主党その他の案が今の国会に出ている。すり合わせがうまくいくかどうかが鍵になる。 私たちは、国が謝罪したうえで国の責任を求めているが、他の法案は違う。また、こうした被害補償において「被害認定制度」を導入したら、うまくいかない。私たちの負けになる。認定を巡って必ず差別と分断が発生する。これでは水俣の被害補償でも問題になっていることだ。 4月には「福島原発告訴団」というものも結成した。 今回の事故は、業務上過失致死傷罪に当たる。公害処罰法にも該当する。告訴団は、東京電力福島第1原子力発電所の事故により被害を受けた住民で構成し、原発事故を起こし、被害を拡大した東京電力および国の原子力委員会、原子力安全委員会、経済産業省原子力安全・保安院等の責任者を刑事告訴することを目的としている。1000名単位で告訴団を結成し、告訴時には福島地検を人間の鎖で包囲することを考えている。第一弾の訴訟は福島の人が中心、第二弾は県外の人に参加していただきたいと考えている。 広瀬隆氏らも東電などの告発に踏み切ったが、第三者なので「告発」どまり。「告訴」は私たち被害者本人ができる。たとえ地検が告訴を無視しても、小沢一郎裁判のように「強制起訴」という例もある。
2012年3月18日
私の3.11一周年──神田香織
大震災・原発事故から一年目の3、11。郡山・開成山球場での「原発入らない福島大集会」には国中、また世界各国から大勢の方々が参加、私は福島の声をとにかく外へ発信し、自分たちの地元を死守して!と訴えるため、羽田空港から阿波踊り空港へ向かいました。
四国へは今年毎月呼ばれてます。1月には徳島県の山間の三好市池田町へ。そして2月には「さよなら原発1000万署名四国集会」で松山へ。郡山市議の滝田春奈さんが「スピーディーのデータを速やかに公表しなかったのは国家的犯罪」と指弾しこの発言は翌日の新聞にも載りました。そして3月、昨年9月に声をかけてくれた高開千代子さん達がまた中心となっての「さよなら原発徳島集会」に。会場は9月とおなじアスティ徳島。

2日前には伊方原発がストレステストの結果「妥当」とされたばかりということもあってか、松山市でも聞いてくれた方がまた数人参加してくれました。会場は立ち見が出るほどの400人。
一部は「さよなら原発徳島実行委員会」結成総会、2時46分黙祷の後、小出裕章さんのビデオレターを受けて私の講演、福島の怒りを伝えるぞ〜伊方原発再稼働させないぞ〜とテンションはのっけから上がり、瓦礫受け入れや食べて応援は放射能の拡散に繋がる、せっかく避難した福島の人たちが避難先でまた被曝!?年寄りだからと汚染されたものを食べると、お迎えが来た時に灰となって土地を汚染しちゃう。福島県内の飲み屋の「ビールは放射線に効きます」という張り紙の存在、一番飲ませたいのは子どもなのに…?。
福島県民が自然を破壊され、人間関係をずたずたにされ、呻吟しているのにだれひとり逮捕されてない東電、再稼働をもくろむ政府。江戸時代だったら市中引き回しの上はりつけ、拷問、晒し首ですよと、講談も入れながら。皆さん、泣いたり笑ったりであっと言う間の一時間でした。

懇談会では福島のこどもたちの保養地として、四国全体で取り組もうと盛り上がりました。夏休みに実現できるかもしれません。
四国から「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」の会員になってくれた方が数名います。
「神田さんたちの故郷を思う気持ちに感激。安心して移住や、保養に来てもらえるよう四国を守ります」申し込み用紙に書き添えてあった一言に思わずホロッ。ありがとうございます。
翌朝、短い時間でしたが「阿波木偶の人形会館」を案内してもらいました。400年も前からの阿波木偶人形。からくりのばねはくじらのひげ、艶顔のおしろいは牡蠣のからを石臼で挽いたもの。人形の頭の素材の桐は会津産。徳島と福島が時空を超えて一つに繋がったような…そんな私の3,11一周年でした。
2012年3月17日
ふくしまの子どもを21世紀の「人道に関する罪」から守れ!──世界市民法廷「陪審員の評決」のお願い
子どもの安全な場所での教育を求める「ふくしま集団疎開裁判」が「ふくしまの子どもを21世紀の「人道に関する罪」から守れ!世界市民法廷「陪審員の評決」の活動を始めました。以下、引用します。
2012年3月11日を迎え、私から皆さまにお知らせとお願いがあります。
いま、疎開裁判は二審の仙台高等裁判所に係属中です。
一審では、「チェルノブイリ事故による健康被害との具体的な対比」からふくしまの未来を予測し、警告しました。
とりわけ来日中のベラルーシのバンダシェフスキー教授の研究成果に基づき、チェルノブイリで子供たちに大量に発生した甲状線のがん、心臓病がふくしまでも発生することを予測し、警告しました。
矢ヶ崎意見書(抜粋)
松井英介氏の意見書(抜粋)
ECRRバズビー論文
しかし、私たちの予想を越え、半年を経ずして、その予測・警告がふくしまで現実のものになりました。既に、高校生が3名、心筋梗塞で亡くなったと聞きました。
甲状線検査の結果、南相馬市など4市町村の子どもたちの約30%にしこりや嚢胞が見つかり、札幌に自主避難した郡山市の子どもにも甲状線検査でしこりが見つかりました。
もはや「チェルノブイリからの警告」ではなく、「ふくしまからの警告」が始まっています。
それが二審の裁判の中心問題です(この問題を追及したのが矢ヶ崎氏の意見書(4)です)。
矢ヶ崎意見書(4)
しかし、この間、疎開裁判で、子供たちがいかに危険な環境で教育を受け続けているかを外部被ばくと内部被ばくの両面から徹底的に明らかにしてきたにも関わらず、政府と自治体はこの事実に目を背け続けてきました。なぜ、ここまでシラを切れるのか、それは常人から見て理解不可能な、疎開裁判の最大の謎でした。
もし福島原発事故が火山噴火のような自然災害だったら、あるいは東京大空襲のような戦争被害だったら、とっくに集団疎開は実現していた筈です。なぜ、最も深刻な福島の集団疎開だけが今なお実現しないのか。
それは、集団疎開の義務を負う政府が福島原発事故という人災を引き起こした加害者自身だからです。
政府が3.11以来福島原発事故に対し取ってきた政策は、三大政策「情報を隠すこと」「事故を小さく見せること」「様々な基準値を上げること」です。つまり加害者として徹底した責任追及されるのを予防することに全精力が注がれたのです。
そんな連中が、自分達への責任追及の突破口になるかもしれないと恐れる集団疎開の問題を真摯に取り組むことは不可能です。
このままいったら、ふくしまの子どもたちは、復興という名のもとにふくしまに閉じ込められ、加害者たちの手によって21世紀の「人道に関する罪」の犠牲者となります。
では、子供たちを救う裁判をあきらめる? とんでもありません。チョムスキーが指摘した通り、もともと、子供たちを救うのは、主権者である我々市民に課せられた根本的な責務だからです。
では、どうやって? 世界史の経験に照らせば、それは民主主義と人権宣言の原点に帰るしかありません。今回、その具体化が世界市民法廷です。世界市民法廷は、世界中の市民ひとりひとりが陪審員となって、子供たちの避難について裁きを下す場です。
世界市民法廷に寄せられた市民の裁きが多ければ多いほど、それが世の中を動かし、子供たちを救います。
どうか、世界中の市民が、いま、原発事故の加害者たちの手によって21世紀の「人道に関する罪」の犠牲者にされようとしているふくしまの子供たちを救うという市民の根本的な責務を果すため、「私たち自身の手で裁きを下す」という世界市民法廷のアクションに参加下さるよう、お願いします。
陪審員として「疎開裁判」の裁きを表明する場所
既に「疎開裁判」の裁きを表明した人たちの判決結果と理由が公開されている場所(日本語版)
2012年3月11日
3/3〜3/4「いわき市の農業家との交流と援農ツアー」に参加して
■遠野町・為朝集落のビニールハウスで汗を流す
【いわき市】3月3日にいわき市に入り、復興とは程遠い津波被害の現実を直視したツアー参加者23人は、翌4日の朝、農作業の支度をして宿泊した古滝屋のロビー集まりました。晴天に恵まれ、23人は朝からパワーに満ち溢れていました。
遠野町為朝集落ののどかな風景 春には桜や梅が咲き乱れるという
湯本から現地のいわき市遠野町まで、バスの窓から見えるのどかな風景は心を豊かにさせ、時間に追われた都会での生活を忘れ去ってくれました。しかし、見えない・匂わない放射能がこの地で生きる人たちや、豊かな自然まで脅かしているかと思うと胸が痛くなりました。
援農先は遠野町為朝集落の折笠茂子さん宅です。この集落はほとんどが折笠姓ですので、折笠茂子さんは「おしげさん」と呼ばれていました。
やる気満々のツアー者たちは、すぐにもみ殻の袋詰め、ビニールハウスの野菜採り、土ならし・・など、約2時間半を手伝いました。ビニールハウスの野菜は廃棄するとのことでしたので、食べられる春菊、ホウレンソウ、タケノコ白菜などは持てるだけお土産にいただきました。そして、黙々と野菜や土と向かいながら、不思議とみんなが笑顔でした。そして、木酢液を使った土は黒々として光り、なつかしい土の香りがしていました。
作業はじめのビニールハウスのなか 黙々と作業をしています
2時間後のビニールハウス すっかりきれいになりました
おしげさんのところでは、次世代の若者たちが後継者として育っていましたので、それなりに人手はありましたが、その若者もビニールハウス2か所をきれいに土まで戻した私たちの労力には、非常に驚いていました。
昼食は集会所で手作りのカレーとサラダをいただきました。サラダのドレッシングは、為朝集落の女性たちが作った「和風ゆずドレッシング」「梨のドレッシング」「ダブルベリードレッシング」の3種類。朝採りの新鮮な野菜に手作りドレッシングは、何よりのごちそうでした。
3本セットで1500円。収益は水道工事に充てています
4.11の余震で湧水が枯れ、断水状態がいまも続く
食後は交流会で参加者からのメッセージとおしげさんたちの現地の声を聴きました。
この集落は、自然の湧水を引いて生活していました。3月11日大震災で他の地域では断水をしても、この集落は水を豊富に使うことができました。そのために、高齢者施設から高齢者を連れてきてお風呂のサービスをしていました。しかし、1か月後の4月11日のいわき市を震源とした地震で、この湧水が枯れて水が遮断されてしまいました。水源を探すためにボーリングなどの調査をしましたが水源は見つからず、この1年近い間、雨水と2つ山を越えた湧水まで毎日水を取りに行って生活をしています。
折笠茂子さん
国は震災との因果関係が認められない、とのことで震災の補助金は使えず、県やいわき市の補助金だけとなり、残り1000万円近い工事費用は13世帯の住民たちが用意しなければなりません。震災後1年を経た今でも、ライフラインが立たれた集落があり、厳しい日常生活を強いられていることに、驚くと同時に国への憤りを感じ得ませんでした。
また、農協に加入している農家には東電からの補償金が入りますが、農協に入っていない有機農業家たちには東電からの補償金が全くありません。しかし、おしげさんたち女性たちは「下ばかり向いていられないからね。前を向いていきます」との毅然とした言葉に逆境に負けない強さを感じました。
休耕地を利用したオーガニックコットンの栽培に挑む
この春には、休耕地を利用してオーガニックコットンの種を植えるとのこと。近い将来、いわき市遠野町からオーガニックコットンの製品が生まれることに再生の道を託しながら、ツアー参加者は実現に向けて一緒に歩んでいきたいと誰もが思いました。
オーガニックコットン畑となる休耕地を前にツアー参加者といわき市の人たち
集落には土から顔を出したふきのとうがたくさんありました。
春がもうすぐ遠野町の集落にも来ています。
震災被害に加えて放射能に苦しんでいるいわきの人たちは、常に穏やかで優しい姿で私たちに接してくれました。そこには、苦しさを乗り越えた強さがありました。その強さに私たちがかえって元気を貰い、風に揺れるコットンの花を想像しながらいわきを後にしました。(郡司記)
土から顔を出したふきのとう
※このツアーについては、下記のブログでも紹介されています。
■特定非営利活動法人「ふよう土2100」 日々のレター
3月5日の記事
3月6日の記事
3.11 いわき市小名浜地区追悼事業
世界が祈る ふくしま・いわきのために
ふくしま・いわきで祈る 世界のために

2012年3月11日、東日本大震災から1年となるこの日、被災地のひとつである福島県いわき市小名浜地区で、震災被災者に対する追悼と、福島第一原発事故後未だに混乱の続く福島県の現状が収束され、まちの復興が一日も早く成ることを『祈る』集いが開かれます。
『祈る』という行為には、魂の力が込められるといいます。自然の大いなる力に感謝し、自然とつながる存在である自分自身に思いを巡らす。また、この『祈り』には世界に向け二度とこのような苦しみを味わう人々を生むことがないように…という深い願いをも込められています。
自然にもっとも近い生き方を守り続けるオーストラリアの先住民族アボリジニの『祈り』を小名浜の地で音楽・舞踊・美術というかたちで共有します。ハワイ・チベット・アイヌといった世界各国の先住民族の『祈り』のパフォーマンスも併せて披露し、いわきに古くから伝わる「じゃんがら念仏踊り」と共に、世界の祈りをこのふくしまの地で一つの力としていきます。
日時:2012年3月11日(日)13:00〜16:30
会場:いわき市「小名浜美食ホテル」1Fフロア/海側ウッドデッキ
主催:特定非営利活動法人ザ・ピープル
概要:
●各国の先住民族などによる『祈り』にまつわるパフォーマンスステージ
オーストラリア中央部のアボリジニ女性たちの祈り(海外より招聘)/シタール演奏 若林忠宏/チベットからの祈り バイマー・ヤンジン/ハワイアンフラ スパリゾートハワイアンズダンシングチーム/タイ舞踊 ラック フクシマ トゥッコン/アイヌ舞踊 宇梶静江とその仲間たち
●じゃんがら念仏踊り 内郷下綴青年会
● アボリジニアート展示
●いわき市主催公式追悼事業会場と結んでの追悼メッセージ中継
●さくらプロジェクト〜満開のメッセージを〜 絆ジャパンボランティアチーム
●屋外会場部分での電源としての蓄電池、ソーラー発電の使用
イベントのポスターをこちらから
表示・ダウンロードできます。
2012年3月11日
福島を元気にする子どもキャンプ 富士山
〜富士山の大自然で冒険〜
(ホールアース自然学校からの依頼で転載します)
◆◆◆福島を元気にする子どもキャンプ 富士山◆◆◆
◆◆◆ 〜富士山の大自然で冒険〜 ◆◆◆
2012年3月30日(金)〜4月2日(月)<3泊4日>
http://wens.gr.jp/program/camp/2011/fukushima-camp-hujisan.html
※諸事情によりHPトップから詳細ページへアクセスは出来ません。
お申し込み・詳細は上記のURLまたは、お電話でお願いいたします。
富士山の麓で子どもキャンプ行う団体として「子どもキャンプ」での支援を行いたいと考えキャンプを企画しました。
大災害という自然の脅威を目の当たりにした今だからこそ、自然の偉大さそして温かさをキャンプを通してお持ち帰りいただきたいと思います。
---------------------------------------------------------
◆福島を元気にする子どもキャンプ 富士山
《協力:富士山YMCA・日本NPOセンター》
◆日時:2012年3月30日(金)〜4月2日(月)
◆対象:福島県在住新小学2年生〜新中学3年生
※当日いわき駅・東京駅で合流できる
福島県・元福島在住の小中学生
◆参加費:無料
《いわき駅〜東京駅までの交通費は自己負担となります。》
◆定員:30名
◆会場:富士山YMCA
◆お申し込み方法:HPお申し込みフォームよりお申し込みください。
◆スケジュール:
1日目:いわき駅集合・電車移動・夕食・ナイトプログラム
2日目:子ども会との交流遊び・野遊び
3日目:洞窟樹海探検・ナイトプログラム
4日目:フリーチョイス(子ども達のやりたいことを聞いて遊びます)
片付け・電車移動・いわき駅解散
※天候等により変更することがあります。
◆主催:ホールアース自然学校
◆協力:富士山YMCA
------------------------------------------------------
◆お問い合わせ先
ホールアース自然学校
〒419-0305 静岡県富士宮市下柚野165
ホールアース自然学校 担当:遠藤・川道
TEL:0544−66−0152 FAX:0544−67−0567
E-mail:info@wens.gr.jp
-------------------------------------------------------
2012年2月20日
「放射能からいのちを守る全国サミット」に参加して
■「なにげない普通の生活ができなくなってしまった」
【福島市】2月11日、 JR 福島駅に隣接する「コラッセ・ふくしま」で開催された「放射能からいのちを守る全国サミット」に参加してきました。
放射能汚染地区に住む子どもたちやその家族のために、夏休みなどの一時保養地として自分の家を利用してほしいと、「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」の湘南、花巻市、京都、奈良の会員さんたちが申し出てくれていました。その話を具体的に進めたいと願っての参加でした。
サミットは11、12日と2日間にわたって開催されました。1日目は避難者受け入れの事例紹介と午後は分科会、そして分科会のまとめ発表。2日目が全国の支援団体と被災者・避難者支援の相談会という日程です。

1日目の報告は盛りだくさんで、避難された人たちの生の声、受け入れ先の工夫など大変参考になりました。
まずは主催者を代表して「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」(福島こどもネット)の新代表・佐藤幸子さんが挨拶。
「避難を呼びかけようと思った矢先に県が『100ミリまで安全』キャンペーン。それを信じて多くの県民が動かなくなってしまった」と語ります。
続いて山梨県で避難生活を送る女性。
「なにげない普通の生活を大切にしてください。私たちはそれができなくなりました」と訴えました。
いま福島県民のうち16万人が県内外に避難し、さらにそのうち6万人が県外で生活をしているという現実があります。
■札幌、東京、大阪、京都から避難受け入れの事例報告
事例紹介として、受け入れに積極的な北海道は札幌の市民団体、東日本大震災市民支援ネットワーク「札幌・むすびば」から報告がありました。
「むすびば」は原発事故まもない昨年3月16日に発足。札幌の雇用促進住宅には被災地からたくさんの方が避難しており、その数は約150世帯500人に上ります。お茶会での交流から自治会づくりへ。さらに保育施設も作りました。イベントを通して地域の人々の交流が進み、自主避難した人たちが活発に動いて、いつでも受け入れている態勢ができつつあります。会場に展示されたキルト作品には、被災地ヘの思いが込められていました。震災直後から受け入れに積極的だった北海道の人たちに感謝です。

「福島避難母子の会 in 関東」は31家族の会員で6月11日に発足。品川に拠点があり、私も以前、事務所のための備品を寄付したりして、活動のことは知っていました。
月に一度集まって情報収集しています。利点は仲間と語りあうことでのストレスが軽減され、正確な情報が得られることです。3月には国連に2人派遣し、都立高校での講演も予定しているとか。子どもたちに福島の現実を知ってもらう貴重な取り組みです。ぜひ語り部としての活動をこれからも続けていってほしいと願います。
そういえば国鉄闘争団もお母さんたちが語り部となって支援の輪を広げていったっけ…。
大阪からはNPO「街づくり支援協会」の人たちが来てくれました。
阪神大震災では、お年寄りたちがひと月ごとに5回ぐらい引っ越しを余儀なくされ、やがて連絡がとだえてしまうケースが多かったそうです。避難者が生活の場を自ら築き、雇用を生み出すことが大切だと話されていました。福島からの県外避難者を対象にした新しいコミュニティ住宅「カントリーファーム」を奈良県宇陀市に建設する計画がある、という話でした。
京都でも3月16日には福島県に現地連絡所をつくり、現在は460世帯1300人以上を受け入れています。関西は阪神大震災の体験があるため、被災支援に積極的でノウハウもあり、自然にお互いの連携ができています。分科会でその報告を聞いて、大変驚きました。関西のこの「おせっかい」精神、関東でもおおいに見習いたいものです。
■汚染の拡散を防ぎ、「避難・保養」のネットワークを全国に広げよう
午後の分科会は「保養プログラム」に参加しました。予定数をはるかに上回り立ったままの参加者多数。発言の機会がほとんどないまま終わろうとしたとき、立ち上がった私の隣の沖縄の方。
「石垣島には神奈川、埼玉、千葉、東京など関東からの避難者が多い。福島からは常時150人ぐらいが生活している。しかし石垣も安全ではない。汚染されたものがどんどん入ってくる。それを放置したままだったらどこへ避難してもムダ。汚染されたものを流通させない仕組みが必要だ」
まったくその通りです。現実に汚染瓦礫の焼却でセシウムの線量があがり、あわてて山形から関西に避難してきた人たちもいます。
1日目の終了後、司会の方に会員さんからの保養地の件で相談したところ「震災直後と違って今は落ち着いている。『福島こどもネット』にメールで書き込めるのでそこへ登録しては」とアドバイスをいただきました。アドバイスを活かし、かつ、連絡があることを祈りつつ、会員さんからの物件コピーをチラシコーナーに置きました。
一日目が終わり、300人を越す参加者はバスにのって温泉旅館へ移動。私は翌日に静岡での「さよなら原発東海ブロック」があったため、残念ながらここでお別れです。交流会はおおいに盛り上がったとこでしょう。
後日の報告によると2日目は福島からたくさんの参加者があり、避難・保養の受け入れは順調に進んだそうです。このサミットがきっかけとなって、福島の子どもたちが自然の中で転げ回ることができることを祈るばかりです。(神田香織)
2012年2月20日
早大アジア研究機構主催「原子力事故と地域社会」フォーラム(2012.1.20)から
早稲田大学ではこれまで何回か震災に関しての講演会が様々な観点で開催されていますが、今回、アジア研究機構が主催した「原子力事故と地域社会」というフォーラムは、放射能汚染を体験したウクライナと福島からの生の声を聴くというものです。雪に変わるのではないかと思う冷たい雨の中、100人以上が会場に集まりました
遠い出来事のように思っていた原発事故が、まさかふるさとに起ろうとは考えもしなかった私。果てしない長い年月、畑や海や山、美しい農村が目に見えない放射能の吹雪に覆われいる様子は、想像するだけで胸が締め付けられます。
キエフの今の様子は将来の福島の姿なのでしょうか? ウクライナと福島からの体験を共有し、自分に置き換えて意識を変え、考える努力をしなければならないでしょう。
以下に話をまとめました。(理事・薄井)
◎チェルノブイリ事故は私の生活をどのように変えたか?
オリガ・ホメンコ氏(キエフ・モヒラアカデミー国立大学人文学部歴史学講師)の報告から
オリガ・ホメンコさん
■事故が起きた時
ウクライナは農業国で美しい森に囲まれたのんびりとしたところです。首都キエフに住むオメガさんは、10歳の時にチェルノブイリ事故を体験しています。
チェルノブイリからキエフまでは140キロありました。事故の発生は1986年4月26日の夜中。その頃まだソ連の原子力発電所は国営で、事故が起きても、国からの命令がないと勝手に避難することができません。それでも住民たちの中には自主的に避難した人もいます。友達のひとりは車で500キロ先まで行き、そこからウクライナを脱出し、アルメニアへ避難しました。
5月になると子どもたちは集められてバスで避難させられました。避難先はアゾフ海沿いの町で、キエフとは環境も違い最初は「ヒバクシャ」と差別されて嫌な思いをしました。
でもすぐに打ち解けて皆で海で泳いだりして仲良くなりました。そこには3ヶ月間避難しました。ペレストロイカ(改革)が始まり、ソ連は激動の時代でした。あまり深刻に考える暇がなかったのです。被害者意識を卒業し、前向きに生きるしかなかったのです。
■原発その後──カウンセリングセンター、被害手帳の交付、夏休みにイギリスへ疎開
ウクライナがソ連から独立してから、原発事故処理に携わった人たちの補償問題が表面化しました。事故一年後には病気になる人が急増しました。甲状腺の病気や、持病の悪化です。精神のケアのため事故の10年後にはカウンセリングセンターができました。
チェルノブイリ事故のときに生まれた子どもは被災者手帳をもらい医療や教育の面で優遇されます。子どもの集団疎開が夏休みに行われました。私もイギリスにホームスティしました。子どもには良い経験です。
■25周年
福島原発事故のあった昨年(2011年)は、奇しくもチェルノブイリ事故から25周年の年でした。いまウクライナでは、さまざまなタイプの放射能測定器が売り出され、チェルノブイリについての本も数多く出版されています。
キエフの中心街にはチェルノブイリ博物館が設置され、事故を追体験がする部屋があります。中にはそこで働いていた人の家族への手紙が展示されています。消防士の銅像等が至る所に建設されています。観光ツアーも行われています。教会では事故が起きた時間にミサが行われます。
25周年のセレモニーでは、アーティストのグループが、花を1、2号機にかぶせるパフォーマンスがありました。花は命の象徴なのです。
■自分の今──なお忘れられない 忘れてはいけない
ウクライナには原発事故後25年経ってもいまだに立ち入れない場所が存在しています。私が子どものころよくキノコ狩りをした森へも、もう行くことができません。事故を忘れたいが忘れられないし、森の中に入りたくないのです。
ガイガーカウンター持参は日常の習慣になっています。特に牛乳を調べます。生活の中で放射能への意識を持つようになっているのです。
今、原発に反対する若い人と無視する若い人がいます。近年になって(ウクライナでも)原発推進の動きが出てきていることに驚いています。25年経って、福島にも事故が起ってしまいました。本当に悲しかったです。
◎放射能汚染と福島の将来──ベラルーシ/ウクライナでの現地調査からみえてきたもの
清水修二氏(福島大学教授・副学長)の報告から
清水修二氏(右)
■放射能汚染下の生活がもたらす「放射性ストレス社会症候群」について
見えない脅威がある。見えないから平静でいられるし、同時に見えないから平静でいられない。わからないことのストレス、疑心暗鬼のストレスが起きている。住民たちの帰還の意志について年代別アンケートを行った。双葉郡8町村では若い人の50%近くは戻る気はないとなっている。住民が離散し、自治体は存続できるかが問題になっている。
■福島が抱える問題
福島出身であるだけで差別を受け、結婚が破談になった例を知っている。日本では親からの教育の問題が大きい。オーソライズされた情報がなく自由に振る舞えないストレス。人間関係の分断が至る所で悲劇を生んでいる。
避難する親子と避難しない親子との間で。給食を拒否する親と農家の子どもとの間でも。あるいは農家vs消費者、農家vs農家など。そして浜通りからの避難者と受け入れ住民の間にあるわだかまり。原発事故の損害賠償受益者に向けられる目は必ずしも好意的ではない。
避難を強引に勧める善意の発言が人を苦しめることもある。
福島大学でも学生を避難させるかさせないかで議論があったが、強制避難はさせなかったので自主避難となり、学生は減った。自治体も辛い決断を迫られた。
■チェルノブイリ事故に何を学ぶか
国により住民は新しい土地と仕事を与えられた。無理な除染はせずに、放射能が少なくなるのを待って戻るという考え方だ。事故関連の情報伝達については、それでも日本の方がまだ早かった。ソ連では情報は秘匿され、そのため被曝が深刻化した。
■今後に向けて
責任問題は誰にあるか? 国や東電だけでなく、誘致した地方自治体にも責任がある。国民の責任も一割はあると思う。したがって、国民の一人ひとりが自分の問題としてとらえる必要がある。
核燃料サイクルは事実上破綻している。放射性廃棄物は超長期の負の遺産を残すという意味で大問題。欧米はすでに脱原発段階にある。福島大学に再生可能エネルギーのセンターができる可能性がある。
県は避難していない人についても、補償すべきだ。残った住民のストレス問題に対応するカウンセリングセンターが必要だが、組織的にはまだ作られていない。
世界は福島の現実をリアルに見つめ、福島をひとり歩きさせずに課題を共有すべきだ。ウクライナのチェルノブイリ博物館に匹敵するようなものを日本でも作るべきだ。そこを世界中の人が訪れ、客観的状況を共有していく場にしていければよい。福島を原発事故と放射能汚染に関する情報の拠点にしなければならない。
2012年2月7日
ライブハウスで「福島」を語る
下北沢で「香織ちゃんねるイン音倉」始まる
【東京】歌手の庄野真代さんが代表を務めるNPO法人「国境なき楽団」のライブハウス、下北沢の「音倉」で、1月26日、「香織ちゃんねるイン音倉」が始まりました。今回は初回ということで「常磐炭坑余聞・フラガール物語」。
昨年の大震災と原発事故で休業を余儀なくされ、昨年10月に一部再開、2月に大々的にオープンするスパリゾート・ハワイアンズ。映画でもおなじみ、46年前石炭から石油へのエネルギー転換で炭坑閉山と首切りの嵐の中、ハワイアンセンターを成功に導いたフラガール達の物語りを自分の体験や評論を入れての一席。
飲食をしながらの「フラガール物語」を演じるのは始めて。前座で登場の講談サロンの織峯さんが着物姿もりりしく、「ポケット講談義士の討ち入り」を一席。福島の報告に続き「フラガール」が始まるとみなさん飲食を控え聞き入ってくれた。途中で私が水を飲んだら、あうんの呼吸でお客さんたちもぐいっとお酒を(笑)。ライブならではの親近感があり、たのしく、ほんとにたのしく語らせてもらった。
USTで配信している「香織ちゃんねる」に登場してもらった浪江町の門馬さんご夫妻も駆けつけてくれました。娘さんが住む北区で避難生活中の門馬さんは元教師で、40年前、たった3人で反原発の運動を始めたうちのお一人。ご夫妻はあの朝日新聞連載「プロメテウスの罠」第一回で紹介されている。
「香織ちゃんねるイン音倉」今後は福島ゆかりのゲストを呼んでのトークライブなど、いろいろ企画を練っていきますので、お楽しみに!(神田香織)

2012年1月31日
被災者の間に生じる「格差」の現実
──いわきの被災地を訪ねて 2012.1
【いわき】1月24〜25日、震災・津波・原発事故の被害を受けている福島県いわき市に行ってきました。
3月11日から10カ月が過ぎました。福島県浜通りの津波被害は、海岸線に平行して走っている山々に助けられて、他県に比べて被害は小さく、そのためにメディアにはあまり取り上げられません。
■県境で線引きされる漁業制限。海はつながっているのに……
今回はいわき市の海岸線60㎞を車で走りました。
港にはようやく船が戻りました。一見、漁もできそうな船と港ですが、放射能汚染により漁はできません。

不思議なのは、いわき市の最南端の茨城県の境界にある勿来(なこそ)港の漁は禁止されていますが、ほんの数分隣の茨城県平潟港の漁港は魚も水揚げされ、大変賑わっていることです。
福島県の海に放射能が留まっているわけでもなく、まして海には境界もなく、海はいつも流れています。海まで県引きしてしまうことを、誰が決めたのでしょうか?
全てが津波で壊されたところに、鳥居が不思議と残っていました。


今回目についたのが大被害にもめげずに再開しているお店でした。
10カ月経った今、資金とパワーのある店は再開し、そのような資源のない店は再生が不可能となっています。
これも、現実の厳しさであり、被災者の中の格差を見ました。
いわき市に限らず、津波被害を受けた地域の復興は、まったく手が付けられていません。
■生活を再建できる人たちとそうでない人たち

海が目の前にある保育園の跡に行きました。
この保育園の近くにある水産高校の生徒たちは津波を予知し、子どもたちを背負って山に逃げたので、子ども全員を助けることができました。
この地域は、防波堤に遮られて住宅から海は全く見えません。
そのために海への危機管理能力が充分に働かなくなったのかもしれません。
津波の跡地には、子どもたちが使ったトイレや手洗い場だけが残されていました。
それを見ていると子供たちの遊んでいる声が波間から聞こえてくるようでした。
新興住宅地の中に建つ1200戸の仮設住宅地に行きました。
3か月前にも行きましたが、新築の家の建設ラッシュになっており、この間の変わりように驚きました。
仮設住宅の目の前に大きな家が建設している現実を見て、複雑になりました。
聞けば、仮設住宅の人も住宅を建設しているとのこと。ここでも、避難者の中の格差を感じました。
また、避難地域の広野町の原発通行止めまで行きました。
行き止まりの道路には、物々しく警備員が立ち、その脇にはパトカー2台、大型警備車3台が止まっていました。
どうやらテロ対策のようです。
広野町は半径30kmに位置し、避難地域です。
お天気が良く洗濯日和でしたが、洗濯物を干している家は全くありません。
どの家も窓を閉め、車を放置して避難していました。
ただ、原発作業員のために、民宿とガソリンスタンド、コンビニが開いており、何とも異様な雰囲気でした。

■再生エネルギーも利権の温床になりかねない
今回、目についたのは火力発電所の煙でした。
原発立地地域には、同時に火力発電所も建設されています。
原発が止まっている今、広野や勿来(なこそ)などの火力発電所の煙が、冬空にまっすぐ上がっていました。
これも東京電力の火力発電所であり、首都圏の生活のための電力です。
人気の全くない広野の街に煙だけが息づいているようでした。

そして、新たなエネルギー政策として、いわき市では洋上風力発電計画があります。
この電力は、また首都圏に送られます。この建設では、原発同様、さまざまな利権が動くことになるでしょう。
大都市のエネルギーの地産地消を具体化していかない限り、福島は原発と同じ日本社会の構造の中に組み込まれてしまいます。
福島は原発の情報ばかりで、市民の生活や町の様子などの情報は、あまり報道されていません。
特に、いわき市はその先が原発立地ため、現在は行き止まりとなっています。
行き止まりと情報不足の関係があるのかどうかは分かりませんが、いわき市の情報は特に少なくなっています。
昔、遊んだ海岸線には、分別された瓦礫がきれいに山々になって並んでいました。
今、私たちに必要なのは、現状と真実に向かい合う姿勢と、次世代により良い形ですべての資源を残す環境と条件を作る覚悟を持たなければ、日本は永久に変わらないことを、被災地は教えてくれています。
(事務局 郡司真弓)
2012年1月8日
1月14〜15日は横浜で、世界の人たちと脱原発を語ろう!
2012年1月14〜15日の両日、横浜市のパシフィコ横浜を会場に「脱原発世界会議」が開催されます。当会も「もちこみイベント」の一つとして、下記のセッションを担当します。
脱原発をたんなるムードに終わらせず、広い視野とたしかな事実をもとに、より現実性の高いものにしていくための貴重な機会。ふるってご参加下さい。
- ◎テーマ分類: 原発に頼らない地域づくり
- ●企画名:「ふくしまの人たちは…今!」
- 第1部 「脱原発」創作講談(神田香織一門)
- 第2部 いわきで生きるジャーナリストから見た震災・原発…そして今
- 安竜昌弘さん(日々の新聞社)と神田香織のトーク
- ○日時:2012年1月15日(日)15:00〜16:30
- ○会場:パシフィコ横浜 Room 311+312
- ○入場料:
- 15日1日券 2500円(前売り1900円)
- 14日・15日2日間フリーパス 4500円(前売り3900円)
- ○詳しくは、脱原発世界会議チケットの購入方法
同会議ではもちろんメインイベントの各セッションも見逃せませんが、当会の支援先であるいわき市のNPO「ザ・ピープル」も、下記の「もちこみイベント」を開きます。こちらにもぜひ足をお運び下さい。
- ●企画名:福島第一原発から30キロメートル~福島県いわき市で考える未来のエネルギー
- ○主催:福島未来のエネルギーを考える会
- ○日時:2012年1月14日(土)15:00〜16:30
- ○会場:Room 416+417
【関連ニュース】
★2分で分かる「脱原発世界会議」!
会議の企画趣旨などがすぐにわかるプロモーション・ビデオができました。プロモーションビデオ
★当日はみんなで歩こう。脱原発世界大行進!
会議初日の14日(土)、横浜みなとみらい地区にて「脱原発世界大行進in横浜」が行われます!主催は首都圏反原発連合のみなさん。東日本大震災以降、首都圏で反原発テモを行ってきたグループです。”歩く”ということは、ひたむきでありながら、大勢がいることでインパクトを与える大きな意思表示。みなさん、ご参加ください。詳しくはこちら。
★プログラム最終版公開!一目で分かる、当日企画時間割
1月14日版
1月15日版
★~ふくしまを「 聴き」、ふくしまと「出逢い」、ふくしまと「つながる」~
『ふくしまの部屋』が設けられます。
2011年12月27日
震災から9ヶ月。復興の道のり遠い、いわき市沿岸部
【いわき市】 12月24日と25日、津波の被害をうけたいわき市の薄磯海岸と豊間海岸、小名浜港に行ってきました。
いわき市は、海に沿って山が連なり、その海岸と山の細長い地域に住宅が並び、街を作り、人々が生活していました。従って、他県の平野のような大きな被害は受けませんでした。
しかし、山に助けられた家並みから視界が海を捉えた時、目に入ったのは一面破壊された地域であり、その姿に言葉が出ませんでした。瓦礫は至ることころに山積みされたままです。9か月経った今もなんら復興の兆しもなく、その痕跡は、まるで戦争後の崩壊のようでした。知らない家の基礎だけが残っている跡にたたずみ、「ここが玄関、ここがお風呂場か・・」と、幸せであっただろう一家団らんを想像しました。
豊間中学校の敷地内にうずたかく積もる瓦礫
津波の跡はあたかも住宅造成地のように何もない
海岸部には今も土のうが積まれている
小名浜港は放射能の影響により、未だ魚は上がっていません。今までなら賑わっていた水産市場の建物も、津波被害により柱だけが残っていました。人気のない港でも、11月に再開した水族館「アクアマリン」と物産店「いわきら・ら・ミュー」には、人の姿も見られ、かすかに活気を感じることができました。店の人からは「いわきの魚がないのが寂しいけど、やるきゃないよね」との明るい声。
11月27日のイベントのパネラーの「すかいストア」の松崎さんに会いました。いわき市の有機農業家をサポートしている松崎さんは、「希望が見いだせない農家の人たちの気持ちを持続させるのが大きな課題である」とのこと。長期的になるに従い、心の支援の必要性を感じました。
1月にいわき市の視察で来る知人のためにホテルを予約しよう・・としましたが、すべてのホテルは原発作業員の宿泊所となり、満室でした。12月で終わる作業が1か月延びているとのことですが、東電の事故対策が計画通りにすすんでいないことを物語っています。
3・11から9か月が過ぎましたが、道路はまだデコボコであり、傾いたままの家も見られ、加えて放射能の問題に直面している福島は「復興」とはほど遠いことを痛感しました。テレビで被災した女性が「がんばろう・・と言われても、どう頑張ればいいのか、わからない」という声が胸に響きました。
いわきから東京に帰る首都高速から見える華やかな東京のネオン街に、津波と放射能被害で苦しむふるさとの姿が重なり、途方もない再生にため息がでるばかりでした。(事務局・郡司記)
2011年11月26日
12.6 NHKラジオ第1が神田香織のインタビューを放送
NHKラジオ第1放送の朝の情報ワイド番組「ラジオビタミン」。
このなかの「ときめきインタビュー」というコーナーで、
12月6日(火)神田香織へのインタビューが放送されます。
時間帯は午前10:05〜10:55。
神田の講談師としての軌跡とともに、今回の大震災、原発事故からの復興へ向けての活動を中心に話が展開される予定です。
みなさん、お聞き逃しなく。番組のホームページからゲストへの質問やメッセージも送れますよ。
■NHKラジオ第1放送「ラジオビタミン」─「ときめきインタビュー」のコーナー
12月6日(火)午前10:05〜10:55
■ラジオビタミン・ホームページ
2011年11月27日
第1回主催イベント
《ふくしまの今を考える──神田香織講談「チェルノブイリの祈り」とトークセッション》
11.27新宿・全労済会館/スペース・ゼロにて
3.11の地震・津波そして原発事故にいまなお苦しむ福島の人々。
一人では気弱になる。でも、みんなと繋がれば力になる。
この輪を全国に広げたい。福島の復興をサポートする
「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」がいよいよ始動します!
■《ふくしまの今を考える──神田香織講談「チェルノブイリの祈り」とトークセッション》
日時:11月27(日) 13:30〜16:30(開場13:00)
会場:新宿・全労済会館/スペース・ゼロ
内容:第一部●講談「チェルノブイリの祈り」神田香織
第二部●トークセッション「ふくしまの現在を語る」
- パネリスト
- 阿部 光裕 (福島復興プロジェクト「花に願いを」代表)
- 松崎 康弘 (いわきいきいき食彩館委員会代表)
- 神田 香織 (ふくしま支援・人と文化ネットワーク理事長・講談師)
2011年11月7日
動き出す地域NPO。被災者・市民たちの自助努力の試みも──いわきレポート
■みんなで声を出して、再生への力を取り戻す
──いわき市小名浜地区交流会に参加
【いわき市・小名浜】 11月7日、いわき市小名浜の社会福祉協議会などが主催した「小名地区交流会」に、神田香織理事長を初めとする会のメンバーが参加しました。

交流会に集まったお年寄り24名は、津波や地震で家を失った人たち。いわき市からの一次提供住宅として地区内の民間アパート(いわゆる借り上げ住宅)に入居している被災者です。
今は民間アパートにばらばらに生活しているため、このような「交流会」がそれまでの地域の縁を確認する数少ない機会なのです。会場では「あら、しばらく、元気だった?」「今どこにいるの?」などの挨拶が飛び交っています。
神田は、まずは自分の育ったいわき市への思いを語り、その次に大きな声を出して明るく生活できる方法など、一人ひとりが日常生活に取り入れることができる手法を伝えました。神田が講談のワークショップなどでよく使っている、大きな声で発生し滑舌をする、心とからだの体操です。
白眉は神田の講談。皆さん、真剣に講談に聞き入っていました。「語り」に聞き入り、その世界に身を浸すことで、人々の心が癒されるという効果がたしかにあるのです。
その後は、お菓子をつまみながらの交流会です。参加者は、今までの辛かったこと、悲しかったこと、嬉しかったことなどを互いに話しながら元気になり、またそれぞれの仮の住まいに戻っていきました。
小名浜の被災者たちは、いつ自宅に戻れるのか、また自宅を建設できるのか見通しは立ちません。しかし、このような交流の場を通して皆さんが元気になり、再生の力がわき出でることを願って会場を後にしました。(郡司記)
※この交流会は、いわき市のNPOザ・ピープルと小名浜地域包括支援センター、いわき市社会福祉協議会小名浜地区協議会の定期的な話し合いのなかで生まれたもの。地域内の県営雇用促進住宅に入居している被災者向けの支援サロンを集会所を利用して9月から定期的に開催されてきた。今回は、民間アパートに入居している被災者を招いた。
ザ・ピープルでは、こうした交流の場を、一時的なものではなくいつでも誰でも集えるようなものにするため、小名浜地区のショッピングモールの空き店舗を利用して、「小名浜地区交流サロン」を11月13日に開設することした。(編集部註)
■ニュータウンに1000世帯の仮設住宅。パオで遊ぶ子供たち
【いわき市・中央台】 小名浜からの帰途、原発事故から避難してきた人たちが暮らすいわき市中央台の仮設住宅を視察しました。ニュータウンのこの地域には、新しい戸建ての住宅がたくさん建てられています。その中に、原発事故から避難してきた人たち、1000世帯が住んでいる仮設住宅があります。
原発の20km圏内に暮らしていた人たちは、強制的に避難させられました。その人たちが生活している仮設住宅は、木造づくりでログハウスのようでした。

一方、原発から30km圏内に生活していた人たちがが避難している仮設住宅はプレハブであり、その住環境の違いに、驚きました。住み心地のよい木造住宅は、長期的に生活しても良いような作りになっており、それは当初から二度と故郷には帰れないことを意味しているようでした。
住宅地は、いわき市の中心からかなり離れた地域ですので、買い物も不便ですが、避難してきた当事者が小さいながらもスーパーを運営していました。同じ被災者同士、会話をしながらの買い物は、住民たちの心を休める役割も担っていました。

広い敷地の中には、小さな円形のパオ(モンゴル遊牧民の移動式住居)に似た建物が数個並んでいます。このパオは、農作業に使っていた建物のリユースです。中は、木製の机が並び、本やCDもずらりと並んでいました。午前中は大人の談話室となり、午後は、子供たちの宿題や遊びなどをする場になっています。
運営するのは、地域のNPOです。ガラス窓からは暖かい太陽の光が注ぎ、子どもたちが元気に遊んでいます。


このように大規模の仮設住宅地では、福祉のサービスに取り掛かりやすいですが、小さい仮設住宅、また借り上げ住宅に暮らしている人たちへのサービスは、まだまだ不充分です。
これからの展望がなかなか見いだせないなかにも、行政に頼らず自分たちで生活を再建し、それをサポートしていこうという市民の取り組みが動き出しています。そこにかすかな希望を抱きました。
福島の民放テレビ局は、今でも「原発情報」「放射線量検査結果」をテロップで流しています。原発事故は、もはや福島だけの問題ではないはずなのに、福島県内と県外の温度差が徐々に大きくなることも肌で感じてきました。(郡司記)
2011年10月27日
経産省前に、福島から怒りの旗。つながる力を実感!
神田香織の「座り込み」レポート
【東京・霞が関】秋晴れのもと「怒ふくしま」の旗が勇ましい。10月27日、「原発いらない福島の女たち」による経産省前の座り込みアクションに参加した。参加者は約40人。

私が福島県で過ごした9年間。平和フォーラムの取り組みで「チェルノブイリの祈り」「はだしのゲン」と県内何度もツアーを組んでもらった。春夏秋冬の福島の景色が走馬灯のように思い出された。あの美しい自然は、見た目は同じでももう別世界だ。悔しい。
きょう福島から参加のほとんどの方が私の講談を聞いていてくれたり、実行委員として切符を売ってくれたり…。なつかしい顔、顔、顔!「こんな形で再会なんで悔しいね」と挨拶するもすぐに「がんばっぺ!」
福岡県の福津で避難生活をしているフェースブックの友達とも出会った。4歳の息子さんは保育園になじんで福岡弁が上手になったとか…。女たちの闘いには笑顔があり、情があり、根性がある。いわきの人を捜したがきょうは参加なし。明日はくるのだろう。3日間で県内から107人が参加するのだ。その後は全国からの女たちも続き、座り込みは来月5日まで続く。
応援で座り込んでいるのはほとんど東京近郊の女性たち。もちろん男性たちも。知り合いが結構いて「東京新聞、読んだよ」と笑いながら声をかけてくれる。中には「なんだあのひどい写真は」とはっきり言う男性も。
あの写真は相当インパクトが強かったようです(苦笑)
「人と文化ネットワーク」の仮リーフレットを配る。そしてマイクをもって挨拶もさせてもらう。大木晴子さんがツイッターで私が参加しているとつぶやいてくれた。一気にフォロワーが増えるかも。
ひとり入会したよとツイッターで連絡があった。うれしい。
そしてきょう朝日新聞の夕刊に「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」立ち上げの記事が掲載されていた。「一人だと気弱になる。繋がれば力になる」を実感した一日でした。(神田記)
2011年10月12日
「原発いらない」の声を挙げ、女たちは立ち上がり、そして座り込む
10.27経産省前アクションには神田香織も参加!
先の「脱原発をめざす女たちの会」立ち上げのニュースについで、またまた女性たちのニュース。女たちの行動がもう止まらない!
福島県から原発反対の声を挙げながら、100人の女性たちが霞が関に向かい、経産省などに抗議するアクション「原発いらない福島の女たち」。いよいよ、10月27日から霞が関・経産省前での座り込みを始めることになりました。
当会理事長・神田香織もこのアクションに賛同。27日午前中には座り込みにも参加します。
■原発いらない福島の女たち 〜100人の座り込み〜
日時:10月27(木)〜29(土) 午前10時〜午後3時
場所:霞が関・経産省前(申し入れ、関係各所訪問、交流会など予定)
詳しくは
「原発いらない福島の女たち」のブログをご覧下さい。
10月30日〜11月5日は同じく経産省前で、
「全国の女たち」のアクション、
10月28日の大坂合同庁舎前では、
大坂のおかんとおとんのアクションも行われる予定です。
2011年10月10日
神田香織ら「脱原発をめざす女たちの会」を呼びかけ
11/23、東京でキックオフ集会
いまだ収束の見通しのたたない東電福島原発事故後、各地で脱原発とエネルギー政策の転換を求める声があがり続けています。全国各地で原発建設反対運動を長年担ってきた女性たち、子どもたちに安全な地域と地球を残すために活動している女性たち、芸能人や文化人としてメッセージを発している女性たちが一堂に会し、このたび「脱原発をめざす女たちの会」を立ち上げます。
当会からも神田香織理事長が、この呼びかけ人の一人として参加。10月11日(火)には立ち上げの記者会見に臨みました。ニコニコ生放送による録画
また11月23日(水)には杉並区の「座 高円寺2」でキックオフ集会を開催します。
「脱原発をめざす女たちの会」のホームページは
こちら。
2011年10月3日
「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」
東京で設立総会を開く
10月1日午後、東京・広尾の「JICA地球ひろば」で、「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」の設立総会が開かれました。出席者は当日時点の賛同者181名のうち45名、他団体の方2名。在京4社・支社の新聞社からの取材もありました。
大震災から7カ月。ちょうどこの日、いわき市では「がんばっぺ!いわき復興祭」という復興イベントが開かれ、スパリゾート・ハワイアン一部営業再開のニュースも伝わってきます。福島の復興へ向けたたしかな歩みを感じながらも、それを阻む課題をあらためて認識しつつ、これからの復興支援のあり方を考える集会となりました。
主催者を代表して神田香織・設立準備会代表が挨拶。その後、定款、事業計画、法人設立申請案など各議案について満場一致で可決し、約1時間で総会を無事終えました。いよいよ新しい団体の立ち上げです。
会場からは、いま福島で映画『物置のピアノ』制作中の橘内さん、いわき市在住のTシャツデザイナーの松本さん、福島を包み込むようなロゴを私たちにプレゼントして下さったインダストリアルデザイナーの若松さん、飯館村での除染活動に参加したばかりの小林さん(当会理事)などから、それぞれ興味深い発言が続きました。
第2部では、福島県立小高商業高校の齋藤貢一校長が、「福島からのメッセージ──被災地の高校の校長として・詩人として」 と題して講演。まさに取るものも取りあえずの津波・放射能からの避難、ちりぢりになった生徒たちを集めてのサテライト形式での授業再開、さらにサテライト校の集約が検討されている現在の状況などを語りました。「学校が存在しないということが、こんなにも辛いことだとは思わなかった」という齋藤校長。たんたんとした口調ながら、教育者としての深い苦悩が伝わります。
同校からは「商業研究部」の生徒さん13名と顧問の先生2名も参加。
これまで南相馬市の農家と食品会社や店舗をつなぎ、「だいこんかりんとう」などニュータイプの食品を開発していましたが、震災と原発災害で地元の農産物が使えなくなりました。それなら別の農産物をと、現在は中通り産の大根を使ったサンプルを開発しています。新版「だいこんかりんとう」の見本は来場者にも配られました。
よく訓練された一糸乱れぬ12分間のプレゼンテーション。中高年の多い会場は、ときならぬ女子高生たちの出現にどよめき。「最近の福島の子は、訛りが少ないねえ」などの声も聞かれました。
なかには津波で家族を失った生徒もいます。来春卒業の3年生たちの進路もまだ不安定です。彼女たちの未来を開くためにも、私たちにできることはまだまだ多いと思います。
イベント終了後、懇親会が開かれました。神田香織の講談サロン「香織倶楽部」のメンバーたちの座興などもあり、和気藹々とした雰囲気のなかで会の船出を祝いました。
なお、会場では松本さんがデザインしたTシャツ、ジーンズバッグの販売も行われました。また4,000円のカンパをいただいたこともここにご報告します。ありがとうございました。(広重記)
■メディア報道
「福島支援でスクラム 風評払拭など推進へ」(東京新聞2011.10.13)
「福島、文化で支援 ネットワーク設立─出身の講談師・神田香織」(朝日新聞2011.10.27)
2011年10月3日
神田香織のいわきレポート
2011年4月〜5月
震災直後に、実家のあるふるさと・いわきに向かい、現地NPOとの交流や避難所訪問などを重ねた神田香織・理事長のレポートです。
やっと常磐道復活、さあ、いよいよいわきへ!
4月10日
NPO法人「ザ・ピープル」の吉田さんからあらかじめ聞いておいた「胡椒やドレッシング、サラダ油、マヨネーズ」など200人分車に積んで、いよいよでこぼこの常磐道をいざいわきへ!
郡司真弓さんらのNPO「WE21ジャパン」の15名、ザ・ピープルの吉田さん、甘南備さんと勿来インターの駐車場で合流。こちらは高校同窓生の根本敦子さん、佐藤敦子さん、神田香織事務所の立木さん。
まずは岩間の海岸へ。冬でもサーファーたちが訪れる静かな遠浅の海。2メートル位の堤防が崩壊してまるで木の塀のように倒れている。家々も壊れて瓦礫の山に声も出ない。ほどなく「プライベートビーチ」と私がひそかに楽しんでいた小浜の海岸、海沿いの家は流されて、あるいは傾いて、こちらも様変わりだ。小さな漁港の舟がひっくりかえったまま。そばにいたおばさんに被害を聞いた。自分は高台で助かったが2人が亡くなったそうだ。
小名浜(おなはま)へ出る途中の我が実家へ。塀が液状化で傾いていた。ひと月ぶりの母、やっと水が出るようになり、皆元気でやっているとのこと、安心してすぐに車に戻る。
小名浜はもう見る影もない。魚市場にのりあげたままの舟が何隻もあり、海産物店がならぶ「ら・ら・ミュウ」や「アクアマリンふくしま」の周りは瓦礫や車が放置してあった。小名浜高校の避難所でまず物資を手渡す。一斗缶の天ぷら油に「鶏肉があるから、きょうは唐揚げにしよう」と。お役にたてて嬉しい。
昼食をとりながら、吉田さんたちの取り組み、被災者が自ら炊き出しをする「避難所母さんの元気プロジェクト」や震災直後のなまなましい様子など聞くことができた。
午後は美空ひばりの「みだれ髪」で有名な塩屋の岬のある、豊間(とよま)へ。ここは本当にうつくしい海岸だった。そして海岸の目の前に中学校があり、そこで公演をしたことがある。しかし、今日目にしたのはあまりに無惨な風景。きょうから自衛隊が捜索に入り、昨日前立ち入り禁止だった豊間の町。堤防はこわされ、道路は寸断され…。食事をしたレストランは別の場所で2階だけが残っていた。もう声も出ない、涙も出ない、ただただ呆然。
避難所に食材を提供している平の「スカイストア」でいわきの野菜など買い物をして、いわきを後にした私たち。底抜けにあかるい故郷いわき。それでも皆さんが今直面しているとてつもない災難。
「地震、津波だけだったら、おれら元気に立ち向かえるけど、原発がな〜」
地元の皆さんと一緒に立ち向かおうと私たち一行、決意をあらたに。この災難に直面して、故郷がぐっと近くなった気がする。
どの家族にも原発事故の重い影
5月2日
いわきの友人、高木さんが避難所の皆さんを激励したいという気持ちをくんでくれて「神田香織ふるさと訪問─避難者との雑談交流」の機会を作ってくれた。ありがたい。
あらかじめいわきの農産物を支援している「スカイストア」にバナナ500本を手配してもらい、徐行運転でいつもより30分遅い「スーパひたち」でいわき駅へ。今日の分のバナナを積み、まずは内郷(うちごう)コミュニティセンターへ。ここはほとんど地元の方だ。
ボランティアの人が衣類をきれいにたたんでいた。体育館など4カ所に別れている避難者の皆さんと話をしたり、ロビーで簡単な講談ワークショップ。約10名が集まり、5歳ぐらいの元気くんが大きな声でてきぱきリードしてくれ、なごやかな雰囲気に。
内郷の御厩(みやま)小学校には南相馬からの方々が。3人家族の方は「単身だと仮設住宅に入りやすいが……」と。別の避難者の方が昨年の「フラおんぱく・講談教室」生徒、あやさんから「香織さん、また教室やって〜」とのメールをみせてくれた。彼女はいま秋田に避難しているという。2年続いた湯本での講談教室、あの頃のなんと「平和」だったこと!
好間(よしま)公民館にも南相馬からの家族が。20キロ圏内の皆さんは避難所を転々とされていてほんとに苦労されているが、この家族は近所にアパートが見つかったとホッとされた様子。
旧三小体育館は段ボールでかこってあり、きょう訪ねた中では最もプライバシーが確保されている。ボランティアのお坊さん達が出際よく炊き出し。案内役の高木さん、いわき支援の会の同窓生淳子さんと、最近再開した「だんだん」という郷土料理やで夕食。おそらくまだ汚染されてない?鰹のお刺身がおいしくて感激でした。
5月3日
4月11日と12日の震度6弱で我が実家は壁やタイルがはがれ、塀はますます傾き、2年前に建てたアパート3棟は傾いて居住者に退去してもらっていた。前回訪ねたのはたまたま4月10日。この日は通行できた岩間と小浜はやはり4月の地震で土砂崩れで不通、近所のサンマリーナはヨットが桟橋に乗り上げたり、腹をみせてひっくり返ったり…。
なにより驚いたのは天然鵜でおなじみの照島が崩れて三角に! 疲れるとその景色をみてぼーっとしていた私の癒しの場所の惨状。幸い家族は元気だが「もう一度大きいのが来るそうだ」と母。隣の家は取り壊すそうだ。我が家は築40年。建てる時に酒飲みの棟梁が「時期がくれば丈夫さが分かる」と言っていた通りまだまだ住めそうだ。棟梁ありがとう!
きょうは地元の泉公民館へ。ここでは度々講演した。連休ということでほとんど外出。北茨城から知り合いが避難していた。地震が恐くてひとりではいられずここへきたそうだ。
勿来(なこそ)公民館は、地元ゆかりの講談「安寿と厨子王物語」の初演の会場で思い出が沢山。ここではボランティアの炊き出しで、バーベキューをしていた。
連休中は大勢のボランティアがいわきを訪れたそうだ。ありがたい。勿来地区は4月の地震で避難している地元の人が多いようだ。4月の地震では新しい断層が2つも出現、温泉が湧き出た所もある。
「勿来の森パークセンター」はできたばかりの立派な体育館。ロビーでは児童劇が。ここで発声などみなさんと交流。最初は疲れた様子でも、声を出すうちに顔に朱がさし、最後はみなさんで立ち上がってお腹の底から声をだしてくれた。ご主人が私の幼なじみという女性と話す。地震がこわくてパニック症になり、運転ができなくなってしまったそうだ。今はすこしずつ練習しているとか、そばにいた10代の息子さんに「母ちゃん、頼むね」といったら「おれがいるから大丈夫」と。
最後の汐見が丘小学校、体育館ではお年寄り達がマッサージを受けていた。小雨がぱらつく肌寒い中、帰りの「ひたち」に乗り込んだ。2日間でじっくり数名の方々と話すことができた。中には子どもの環境をめぐって離婚寸前のけんかをしている夫婦もいる。建てたばかりの家にもどれない20キロ圏内の人たち、どの家族にも原発事故が重く影をおとしている。まったく終息しない、かろうじて悪化を伏せいているだけの状態はいつまで続くのだろうか…。
「香織倶楽部」の面々も避難所訪問
5月22日
講談サロン「香織倶楽部」の面々による避難所激励講談、御陰さまでご好評いただきました!朝倉さん、本間さん、高橋ルミ子さん、田口佐智子さんが参加してくれました。簡単ですが報告を!

前日とはうってかわって寒い日しかも小雨、うっかり夏の着物ででかけ一日中震えながらの慰問となりました。10時半に四倉(よつくら)ICで現地案内の高木さんと合流、まずは四倉の皆さんが避難している四倉高校体育館へ。最初に私が挨拶し、つい新内の話になり、本間さん一声披露、被災者の人たちと「あいうえお」で滑舌の練習。北原白秋の「五十音」、その後朝倉さん「バナナの叩き売り」、田口さん「ガマの油売り」、高橋さん「義士の討ち入り」と一席づつ披露。そしたら私の時間がなくなり、引き上げようとしたら「香織さんのが聞きたかったのに〜」と言われ反省。
2カ所目からは構成をかえて、皆で「バナナの叩き売り」をやるなど私の時間も充分にとることができました。
被災地・久之浜(ひさのはま)の町中を車で視察。まだまだ手つかずの瓦礫の山でした。四倉の「蟹洗温泉」。海をみながら入浴、人気の温泉でしたが、一階は破壊され当日入浴していた人たちで犠牲になった方も…。臨時の「四倉道の駅」で無料(義援金カンパ)のうどんをごちそうになる。田口さんの前でうどんがきれ、時間がなくなり、田口さん車の中で食べたとか。
2つめの避難所は福島高専、ここには福島第一原発から20キロ圏内の広野町のみなさん。3カ所目は中央台南小学校、ここは原発近くの楢葉町(ならはまち)のみなさん。体育館が広くて、また寒くて毛布を膝がけにして聞いてくれました。最後は江名(えな)小学校、ここは地元江名の方々。どの会場も、一緒に「あいうえお」など声をだしたりするうちに笑顔もみえて、お元気になられた様子でした。
各避難所、それぞれ会場条件も違い、臨機応変に対応、会場かがりの方々も机や椅子をさっと出してくれ協力してくださる。こうして神田香織一座は先々で歓迎してもらい、5時ごろ解散、無事帰路につきました。
朝倉さん、車、バナナの差し入れありがとうございました。
本間さん、高橋さん、田口さん、お疲れさまでした。
みなさん、気合いが入っていてよかったですよ!!
パパンパン
ニュース・アーカイブ
タイトル欄をクリックして折りたたむことができます。

ホーム
最新ニュース